髷、日本髪の起源は唐から伝わった冠下一髻

伝・源頼朝の肖像画。冠の左右に刺してあるのが笄。上部に突き出した巾子(こじ)に髷がおさめられている。下は冠下一髻のイラスト(既出)
伝・源頼朝の肖像画。冠の左右に刺してあるのが笄。上部に突き出した巾子(こじ)に髷がおさめられている。下は冠下一髻のイラスト(既出)

髷、日本髪は日本の文化である。江戸時代に興隆したが、その後洋風の髪形にとってかわられた。いまでは舞子さんなど一部の限られた人か、結婚式などでわずかに見られる程度ではあるが、伝統文化として連綿と続いている。

髷、日本髪は7世紀後半、唐の冠位制度を取り入れたことに始まる。天武11年(683年)に漆紗冠(しつしゃかん)、圭冠(はじばこうぶり)が制定され、冠を被るようになり、冠下一髻(冠下の髷、後は烏帽子下の髷、ともいう)を結った。

この冠下一髻という髷は、冠の巾子(こじ)に収め、横から笄を刺して冠を頭に固定する役割がある。冠を固定するためにはこのほか、上緒(あげお)という紐を巾子から顎に掛けることもあった。当時の貴人は、人前に出るときは冠の着用が求められていた。

冠下一髻は頭頂部に毛束をまとめ、絹糸で結ったもので、巻く回数も多く、しっかりと巻き、笄を固定した。後の茶筅髷に近い。ただ髷の角度が茶筅髷より直上になっている。

この冠下一髻は、宮廷、公家など貴族階級の風俗だったが、鎌倉時代になると武家、室町時代は一般男子にまで結われるようになった。
さらに、月代が剃られるようになって、髷を曲げる銀杏髷が結われるようになり、江戸時代になると多種多様な髷が登場する。

女子の日本髪は、男子の髷をまねて発生した。戦国時代末期の出雲の阿国が男髷を結ったのが、その始まりと伝わる。
それまでの女性の髪は後ろで束ねた垂髪だったが、束ねる位置を髻の位置にした根結の垂髪(ポニーテールに近い)が江戸初期に湯女らに結われるようになり、これをベースにして男髷を取り入れることで、多様な日本髪が登場した。江戸時代の初期はタボ(上方ではツト)といわれる後頭下部に特徴のある髪形が登場し、やがて鬢にデザインのポイントが移るなどして独特の変化を遂げた。

冠下一髻は宮廷、公家社会では明治初期まで結われた。また冠に刺した笄は、髪刺しとの表記もみられることから、簪(かんざし)の起源かもしれない。
平安時代後期、宮廷の女官が自室で過ごすときは、この笄を使って長い垂髪をまとめて、動きやすいようにしていた。これが笄髷の起源になった。この笄髷は笄1本で手軽に巻き上げられることから、江戸時代になると日常生活で広く結われてた。

以上、駆け足で巡ったが、唐から伝わった冠下一髻が、その後の日本の髪形文化の元になった、というお話しでした。

丘圭・著