江戸の治安のいったんを担った髪結床

江戸時代、17世紀後半になると戦国時代から続く江戸の社会は安定してきた。江戸の社会を支えたのが武士以外の農民や商人らによる自治である。
支配層である武士は当時の人口の7、8%程度。しかもこれは家族を含めての数字で、武士は2%程度といわれる。もともと少数なうえに、元来軍事を担うのが武士なので、江戸時代も番役など軍事担当が重要視され、町奉行など民政に携わる武士は少ない。それを補い支えたのが庶民による自治である。

統治の基本は、税の徴収と治安である。税の面では年貢の徴収を担った惣村など農村部の役割が大きいが、江戸、京都、大阪の3都では町の治安をそこに住む町人らが担った。もちろん、与力、同心の町奉行の役人はいるが、人数は少なくて手が回らない。治安に関しては、武士以外にも市井の輩も岡っ引きや目明かしといった身分で、事件の解決を手伝ってはいたが、事件を未然に防ぐには不審者の発見が重要で、その役割のいったんを担ったのが髪結床だ。

町の髪結床は、3人立ちといって、小僧、中床、床師が客に当たるのが普通だ。立つ位置は道に面して立つ。客も道を見る。こうして6人が道を見ることになる。髪結の仕事をしながらだが、不審者が道を行けば気がつくだろう。
「髪結床は江戸男子のサロン」にも書いたが、髪結床は単身男性のたまり場だ。怪しい輩が道を行けば、床屋の奧で順番を待っている客が不審者の後をそっと追ったかもしれない。
髪結床は町単位で床を張っていたが、人の集まる広小路や大きな橋の広小路にも床を張って営業した。広小路は火事の多い江戸で防火帯として設けられた。橋からの類焼を防ぐために、大きな橋のたもとには広小路があった。
火事が出たときは、広小路に造られた仮設の床店を撤去して防火用の空き地にして対岸からの類焼をまぬがれるのが目的である。

その広小路は、道の要衝にあるため人が集まり、多くの商い床や水茶屋、講釈場や見世物小屋などが営業して賑わいを見せていた。広小路は幕府の助成地として個人が借り受けることもあったが、床持惣商人、一種の協同組合に貸付けて管理させていた。
そんな人が集まる広小路に髪結床は優先して床を張っていた。理由は、地域の治安を維持するために髪結床が優先されたのではないだろうか。

ここで営業する商人は「欠付役」(かけつけ役)をつとめることが条件となることが多く、災害時の対応をするとともに、万が一の場合は奉行所などの書類を持って避難するなどの役を負った。髪結床はその立地によって、橋番や触書を記した高札を持って逃げる番役なども任されていたようだ。

時代小説に髪結床を主人公にした捕り物小説がある。荒唐無稽というわけではなく、むしろリアルに近い設定といえる。

明治になって髪結床は西洋理髪に代わり、警察の管轄となった。ある歴史学者は、警察が衛生の仕事までさせられた、と論評していたが、元々理髪業、理容業は市民生活において治安の役割を担う側面があった。
理容業が衛生業務として、厚生省(当時)の所管になったのは第二次世界大戦後である。

理容業が衛生業務として、厚生省(当時)の所管になったのは第二次世界大戦後である。

丘圭・著