一銭職の由来

床屋、髪結は、別称・一銭職ともいう。
一銭職の由来には諸説あるが、享保年間(1716‐36)に江戸髪結株仲間の申請に際し、江戸町奉行に差し出した「壱銭職由緒之事」による、という説が有力である。


「壱銭職由緒之事」、これに類似する書は各地に存在するという。

「壱銭職由緒之事」は、公儀に株仲間を認めてもらうための一つの資料として差し出されたもので、髪結職の祖といわれる藤原采女亮政之の話から、神君・家康公を采女亮から17代目の後裔にあたる北小路藤七郎が救った逸話など、公儀の裁断を有利に導くための話が盛られている。

この中で、三方原の戦い(1572)で武田軍に敗れ、敗走した家康公が大雨で増水した天竜川で極まったところを水練に長けた北小路藤七郎が浅瀬に導き、家康公は無事浜松城へ帰城できた、とあり、その折、家康公は褒美として銀銭一銭と笄(脇差という史料もある)を与えた。これが一銭職といわれるゆえんである、という説である。
各地に残る「壱銭職由緒書」「一銭職由来書」も同様の内容が記されているようだ。

これとは別の説もある。
近世当初、つまり江戸時代初期、髪結の料金が当時の一銭だったという説である。髪結は月代を剃るので、髪結職を「一銭剃り」とも呼んだ。往来の多い道端に簡単な床を構え、髪結をしていて、道行く人も気軽に月代を剃ってもらったのだろう。そして、この「一銭剃り」の呼称は広く使われていた。

「一銭」という言葉には、安くて気軽に利用できる、という意味合いもある。江戸時代には「一銭茶屋」が庶民に親しまれていた。時代は下るが、ご年配の江戸っ子なら一銭蒸汽と呼ばれた大川(隅田川)の渡し船(ぽんぽん船)をご記憶だろう。(この渡し船は戦前まで利用されていた)。つまり、安価で利用価値があるものが「一銭」という言葉に込められている。

「壱銭職由緒之事」にある銀銭一銭は、貨幣価値は変動するが、高額であることは間違いない。江戸初期、すでに広く使われていた「一銭職」を、「壱銭職由緒之事」は家康公からの褒美に結びつけ、髪結職を権威づけたのだろう。
「壱銭職由緒之事」は家康を救った17代目藤七郎から4代下った21代目幸次郎による、とされる。亨保12年、時の町奉行は大岡忠相(南町奉行)である。大岡忠相は亨保の改革の物価対策の一つとして、株仲間を積極的に公認していた。その施策に乗って、江戸髪結株仲間も認められた。

ちなみに髪結の料金は、江戸後期・天保(1833~43)の頃は28文になっている。当時、28文に決められていたという説もあるが、24文、32文などもあるから、やはり需要と供給、髪結の力量によって差があったようだ。そのころ髪結職を「一銭職」「一銭剃り」とよんでいたかは不明である。

1銭=1文

丘圭・著