「壱銭職由緒之事」は信頼できるか?

理美容業の祖は、鎌倉時代の藤原采女亮政之とされる。これは「壱銭職由緒之事」、「一銭職由緒書」など各地に伝わる史料による。

要約すると
「文永年間(1264~74年)、京都北面の武士だった藤原晴基は、亀山天皇(1259~74)から預かった九龍丸という宝剱を紛失し、その責任から浪人し、子息の采女亮政之(うねめのすけまさゆき)とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関へ下り、そこを往来する武士を客として月代そり髪結を営みながら探索を続けた。采女亮政之は藤原晴基の三男で、長男元勝(反物商)、次男元春(染物師)は京にとどまり宝剣を探した。晴基は弘安1年(1278)没し、采女亮は3年後下関を去り、その後、鎌倉に移り住んだ。」、と伝えている。

さらに時代は江戸時代に下り、
「三方原の戦い(1572)で武田軍に敗れ、敗走した家康公が大雨で増水した天竜川で極まったところを水練に長けた、采女亮政之から17代後裔の北小路藤七郎が浅瀬に導き、家康公は無事浜松城へ帰城でき、その褒美として銀銭一銭と笄(脇差という史料もある)を家康公から賜った」と記している。

この史料「壱銭職由緒之事」が書かれたのは江戸中期である。
采女亮政之から21代後裔の幸次郎が亨保12年に江戸髪結株仲間の申請に際し、江戸町奉行・大岡忠相(南町奉行)に差し出したとされる。

この幸次郎という人物、「壱銭職由緒之事」の通りなら、21代続く髪結の名門を受け継ぐ人になる。髪結仲間の顔役的な存在だったのかもしれない。家康公を助けた17代はその後幕府の「御用髪結」を務めたとされるが、21代も「御用髪結」を務めていた可能性はある。初代の采女亮政之も鎌倉で幕府に仕えたと伝えられる。

しかしである。この話、できすぎている。
「壱銭職由緒之事」は株仲間を公儀から認めてもらうために、髪結職、また幸次郎自らを権威づけるための粉飾が疑われる。

幸次郎から4代前といえば、曽祖父のその親である。いまなら単なるご先祖様の一人である。しかし、神君・家康公を助けた名誉あるご先祖様なので北小路藤七郎については伝承、記録が残っていたかもしれない。

しかし21代も前となると、これは天皇家ほどではないにしろ相当な名家でない限り伝承されない。大名でも守護大名や管領家から続く大名はともかく、下克上でのし上がった大名で、きちんとした(創作されたものでない)家系が21代も続くのは珍しい。とは言うものの、庶民のレベルでも室町時代からの現在にまで家系を継ぐ人がいるから、完全には否定できなのだが、、、

先祖を敬い家系を大切にするようになったのは江戸時代になって、家の制度が広まってからである。それ以前の日本は、ご先祖様や家系への関心は薄かった。行き倒れ、無縁仏が普通のことだった。
「壱銭職由緒之事」での21代前のご先祖の話というのは、やはり疑わしい。

かといって「壱銭職由緒之事」に記述されている内容が荒唐無稽で噴飯物かというと、そうでもなさそうだ。内容が具体的だからだ。
藤原晴基・采女亮政之の親子が下関にいく前に、髪結職で高い収入を得ていた渡来人(新羅人)に親子で髪結の技術を学んだくだりや、さらにその後、京都の亀山八幡宮裏の中之町で武士らを相手に髪結所を開き、ここに床の間を設け、亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸を置いたことから、髪結を「床屋」と呼ぶようになった話などは、具体的である。
もっともこの記述が事実なら、理美容業の祖を采女亮政之とするのは怪しくなってしまう。
「壱銭職由緒之事」に記述された内容のうち、藤原晴基、藤原采女亮政之に関する記述は、別の史料があって、それを流用、引用した可能性があるのではないだろうか。そう推測する。ただその史料は、いまは不明である。
近年、我が国の歴史に関する新たな史料の発見が続き、歴史が改められている。歴史が変わっては困るのだが、実際には他の学問に比べると修正されるのが多いのが歴史学である。

余談だが、理美容に関する風俗は、江戸時代後期の守貞謾稿や耳袋などを種本にした記述が多いが、この類の種本も100年も前のことなどを記述しており、全幅の信頼を置くわけにはいかない。

丘圭・著