理美容業の祖、藤原采女亮政之 考

理美容業の祖は、鎌倉時代の藤原采女亮政之とされる。これは江戸時代の「壱銭職由緒之事」による。
藤原采女亮政之の父、藤原晴基が時の亀山天皇から預かった宝刀を紛失してしまったことから、髪結の仕事をすることになり、理美容業の祖になる。

藤原晴基は北面の武士という。
北面の武士は、天皇や上皇を警護する近衛兵で、中下級の公家がなった。地方の侍とは出自が違う。
平安時代、力をつけた僧兵の強訴から禁裏を守るために設けられたのが北面の武士だが、源平の合戦後は天皇上皇の近辺警護にあたった。

その長である近衛大将は従三位で、その下に従四位以下の中下級公家がついた。四位,五位のものを上北面,六位以下のものを下 (げ) 北面といった。
天皇から直々に宝刀を預かるのだから、藤原晴基は位の高い武士、おそらく上北面の武士であったと思われる。

藤原晴基の子、藤原采女亮政之の采女亮は宮中の官職名である。
采女は、地方の有力者の子女で、内裏に詰め、天皇に身の回りの世話をした。ウネメという言葉は古事記伝にもみえ、大王(天皇)の給仕などをしたとされる。平安時代は容姿端麗な子女が内裏に上がった。
采女を管理する役職が采女司である。采女正(かみ)が長で、その下が釆女亮になる。位階は采女正が正六位下とされる。亮は、それ以下の位階、従六位あたりになるだろう。

「壱銭職由緒之事」には、采女亮政之から数えて17代後裔の北小路藤七郎の名前がでてくる。
藤原一族は、平安時代に栄華を極め、その子孫、一族は後年まで宮中の中核をなした。
摂政関白になれる摂家は、近衛、九条、一条、二条、鷹司の五家で、いづれも藤原一族である。
摂家以外にも、公家には清華、羽林家、名家、半家などの家格があり、これには藤原氏以外の、源氏、平氏、菅原氏、清原氏、卜部氏らも名を連ねるが、やはり藤原氏が他の氏を圧倒している。

北小路は、名家に属する。名家は主に文筆を行い、大納言、中納言に昇ることもできる家格とされ、宮殿に上がることもできる。
理美容業の祖、藤原采女亮政之は中下級の公家の出であったことがわかる。

余談だが、宮中の裝束、所作を仕切ったとされる山科(羽林家)、高倉(半家)の両家も藤原氏の流れをくむ。

参考文献:官職要解(和田英松)

丘圭・著