断髪令とは「散髪制服略服脱刀共為勝手事」

現代の理美容業、髪型風俗は明治4年の断髪令によって始まった、とされる。
一口に断髪令といっているが、正確には
「散髪制服略服脱刀共為勝手事
但禮服ノ節ハ帯刀可致事」
とある。(太政官布告第三九九號、八月九日)

断髪令というと、断髪を命じるかのような印象を受けるが、違うようだ。
刀に関しても、この布告を帯刀禁止令といっているが、禁止というほどの強いニュアンスはない。礼服のときは帯刀してもよい、という但し書きがついているくらいだ。

この布告は、
散髪、服装、帯刀は勝手、自由にしていい、
と読める。

幕末にはすでに、散髪した人、洋服を着た人、刀を携行しない人がいて、そんな風俗を容認するために布告されたのではないかと解釈できる。

しかし、実際の運用をみると、明治政府は強力に洋風化をすすめ、散髪を積極的に奨励した。本来なら、強制力のある命令にしたかったのだろうが、風俗は民衆の生活に根付いているだけに、民衆の反発を恐れたのかもしれない。

江戸時代、ザンギリ頭は乞食、非人、囚人がしていたこともあって、散髪はなかなか浸透しなかったが、明治6年に明治天皇が散髪すると、髪を切る人が増えた。まず役人など公的な仕事についていた士族から散髪が進み、商人、そして国民の多数を占める農民へと散髪が浸透していった、とされる。江戸時代にも髷を結わない総髪頭の医者・学者、また月代を剃らない武士もいて、彼らは散髪に抵抗は少なったようだ。

散髪の普及率は、一説によると
明治6年30%
同10年65%
同13年80%
同16年90%
同22年100%
とある。
ただし史料の出所は不明で、どういう調査がされたのかわからないので、目安程度のものだろう。

長年の年月を経て身についた風俗、風習というのは一朝一夕には変わらない。髷、月代もそうだし、既婚女性のお歯黒も明治になってもすぐには廃れなかった。

なお、前述の太政官布告第三九九號には、注釈欄に
「五年太政官第9號及第三百三十九號布告ニ依リ散髪ノ外消滅」
とある。服装、刀については翌年の布告に依ることになり、散髪だけが残った。

参考資料・法令全書(内閣官報局、明治20年-45年)

丘圭・著