石川島人足寄場の職業指導

江戸時代、日本が世界に誇れるものの一つに、人足寄場がある。
寛永2年(1790年)、火付盗賊改の長谷川平蔵の発案で石川島につくられた、無宿、浮浪者対策の更生施設である。

ここで手に職をつけさせて、社会復帰させた。
大工、建具師、左官、彫り物、屋根屋、竹籠、鍛冶などの専門的な仕事から、米つきや油しぼり、紙すきなど簡単な仕事まで、入所者に応じて指導した。いづれも社会に必要な仕事であり、その中には当然、髪結もある。

1万6030坪の敷地に職種ごとの長屋があり、入所者は朝8時ころから午後4時ころまで作業した。牢屋に収容された囚人はザンギリ頭だったが、寄場では髷は残したままで、女子も既婚者はお歯黒が許された。

期間は3年が基本で、入所者は柿色の地に水玉模様の着物を着用し、1年経つと水玉が減り、放免前には柿色の無地の衣服になった。無地の柿色を着た入所者は、外に出ることができ、仕事や買い物をした。

作業で得た労賃は、放免、出所するときに渡され、仕事を始める資金にしたり、奉公する際の資金とした。また、出所者が店舗や土地、農地を借りるときには置場が保証人になって自立を助けた。かなり手厚い自立支援といえる。

当初は120~130人ほどの入所者だったが、天保(1833~1846年)の頃になると400人を超えた。幕府も無宿、浮浪者対策としての効果を認め、当初は長谷川平蔵が幕府から借りた資金を銭相場に投資し、その利益で運営していたが、幕府からの予算も増やされたという。長谷川平蔵は「鬼平犯科帳」のモデルになった旗本である。

人足寄場は明治になって廃止されたが、この人足寄場の制度は、世界で最初の近代的刑務所として歴史的な意義がある。

現在の刑務所でも服役者に、社会復帰に役立てるための職業教育が行われている。職種は大工、建具にまじって理美容があるのは、江戸の昔から、これらの職種は社会からの必要性が高いから、といえる。所内で理美容師の国家資格も取得できるが、これは理美容の業法とは別の扱いになる。
最近では女子の入所者が増えたためか、ネイルやエステなど幅広く美容系の職業が教育されている、という。

参考史料・「一話一言」(大田南畝)ほか

丘圭・著