率先して洋装化した皇室

明治4年にいわゆる断髪令が出されたあとも、髷を結う男性は多かったが、明治6年に明治天皇が断髪したことで急速に普及した、と伝わる。その明治天皇も、それまでは古式ゆかしい宮廷風俗だった。

明治天皇というと、残された写真から、豊かな髭を蓄えた威厳のある姿を思い浮かべるが、若いころは初々しかった。

明治天皇が外交デビューした英国外交団との謁見に同席した英国人外交官が残した記録に、その時の明治天皇の姿が描かれている。
白い上着に、詰め物を入れた真紅の長袴をつけ、烏帽子を被っていた。烏帽子といっても揉烏帽子とは違い、巾子(こじ)、垂えい冠のある冠だ。
眉は剃って額の上に眉を描き、頬紅をさし、唇は赤と金に塗っていた。そして公家・皇族の決まりであるお歯黒をしていた。
豊かな髭を蓄えた明治天皇の写真からは想像できないが、まさに平安時代から700年続く、宮廷風俗である。

英国の在日公使ハリー・パークスに同行した英国貴族で外交官のミットフォード(「英国外交官の見た幕末維新」)による。慶応4年(1868年)3月26日、京都御所。明治天皇はこのとき15歳の少年天皇だった。

英国王室を代表する外交団なので、天皇と対等な立場で、まじまじと観察したようだ。
声はか細かったが、後ろに控えた皇族(山階宮)がはっきりと復唱し、それを伊藤俊輔(後の初代総理大臣)が通訳した。ミットフォードは、「高貴な血筋を引いていることはありありとうかがえ、威厳に満ちていた」と書いている。
儀式は15分ほどで終えた。

謁見を設定した土佐藩の後藤象二郎は、少年天皇が職務を遂行できるかミットフォードに心配を打ち明けていたが、無事に役目を果たした。

ミットフォートは、明治2年(1869年)に親善訪問で来日した英国ビクトリア王女の第ニ王子エジンバラ公にも同行し、天皇に謁見している。このときは浜離宮が舞台だったが、やはり宮廷風俗だったようだ。(風俗の記載はない)

その後、明治39年(1906年)に英国王室の甥にあたるコンノート殿下の主席随行員として再度天皇に謁見している。このときの天皇は立派な洋装姿だったと書き残している。ただ、ミットフォードは日本の伝統的な風俗が失われていくのを残念がっている。
明治天皇が洋装に切り替えたのは、断髪した明治6年前後だと思われる。

慶応4年に明治天皇に謁見した英国使節団の中に、外交官で通訳のアーネスト・サトウも同席していて、彼も「一外交官の見た明治維新」(第31章)にその時の模様を書いている。内容はほぼ同様だが列席者や席次などが詳しい。
英国代表のハリー・パークス公使も天皇と顔を合わせているので、「あいさつの言葉も間が悪そうだった」とあり、少年天皇も「最初の言葉が思い出せずに」とある。儀式というのはこんなものかもしれないが、少年天皇にとってはホロ苦い外交デビュー(*)だったようだ。

余談だが、明治天皇の后、昭憲皇太后(一条美子)は日本で最初に洋装した女性といわれ、明治19年(1886年)にはすべて洋装に切り替えた(寝間着は除く)という。お歯黒も日本で最初にやめた貴人と伝わる。
皇室が率先して洋装化を進めていたことがうかがえる。

(*)実際には英国使節団の3日前(1868年/慶応4年、3月23日)に、明治天皇は仏国公使とオランダの代理行使に謁見している。英国公使にもこの日に謁見する予定だったが参内の途中、刺客に襲われ延期となり、改めて3日後の26に日参内した。

日本の歴史では、薩英戦争の発端となった、1863年(文久3年)9月の英国商人リチャードソン殺害事件が歴史上の画期として大きく取り上げられているが、イギリス人は英国公使襲撃事件のほうを重大視している。3日前の襲撃に懲りて、使節団を守る英国衛兵は抜刀という異例の情況での参内になった。

丘圭・著

参考文献:「英国外交官の見た幕末維新」、「一外交官の見た明治維新」ほか