仏国に渡った、幕末の伊達男

江戸時代の風俗は、浮世絵や屏風絵などから、うかがい知れるが、幕末に登場した写真はよりリアルで正確な情報を提供してくれる。

上が山内六三郎、下が乙骨亘。1863年パリの医学研究所を訪問した際、ルイ・ルソーが撮影した。
上が山内六三郎、下が乙骨亘。1863年パリの医学研究所を訪問した際、ルイ・ルソーが撮影した。

もっとも、銀板写真や湿板写真では感光剤の性能から、長時間の露光が必要で、当時の写真は動きのない記念写真か人のいない風景写真になる。幕末の写真館には、首を支える道具が常備されていたそうだ。
英国の商人リチャードソンが殺害された生麦事件では、ワーグマンの描いた絵をベアドが撮影した写真が残されている。瞬時を切り取る、いまの写真とは別物である。

文久3年(1863年)、横浜鎖港を交渉しに仏国に向かった第二回遣欧使節団は、多くの写真を残している。当時、日本でも写真撮影が行われていたが、仏国の撮影技術は優れていて、日本で撮影したものより鮮明な写真が残されている。

山内六三郎は、第二回遣欧使節団に通訳として随行した。写真は、パリの医学研究所を訪問した際に、写真家のルイ・ルソーが撮影したと伝わる。ワイシャツ、ネクタイに羽織、袴の和洋折衷である。右手には洋帽を持っている。正面から見ると髷は見えないが、小さく結っているはずである。洋靴を履いていたかもしれないが、下は写っていない。
なかなかの男前でパリジェンヌから歓迎された?

もう一人は、理髪師として随行した乙骨亘(オツコツ ワタル)である。この写真は山内と同様、シャツに和装だが、フランスで撮影された洋装の写真も残されているという。
当時のシャレ男は和洋折衷を旨としたらしい。

随行員の写真は他にもたくさん残されているが、シャツ姿は少ない。また上記の両人は月代を剃っていないが、他の随行員の多くは月代・髷げ姿である。
使節団の要職者は束帯に固烏帽子の礼装姿を残している。当時、仏国では異相の東洋人を好奇の目で迎えた。多くの写真が残されているのも、文化人類学的な目的もあって写真撮影した、とも伝わる。

この第二回遣欧使節団、エジプトのスフィンクスを背景にした写真を残し、「エジプトに行った侍」として知られる。目的の横浜鎖港は、派遣前から無理と想定され、想定通りの結果に終わった。正使を務めた池田筑後守長発(ながおき)は正使に任命された時から、処罰を覚悟していたというが、帰国後、その通りになった。

当時の幕府は、江戸では開国、京都では孝明天皇の影響を受けて攘夷・横浜鎖港という、二元政治が行われ、末期的な状態を呈していた。

ちなみに上記両名は、明治維新後、新政府の要職について明治政府を支えた。

山内六三郎
第二回遣欧使節団に通訳として同行。
帰国後、函館戦争で榎本武揚の書記官、また同戦争に従軍した元仏軍事顧問のジュール・ブリュネ大尉らの通訳官として活躍。
敗戦後、黒田清隆に見込まれ開拓使に登用される。その後、工部省、農商務省、逓信省に勤務。鹿児島県知事、さらに八幡製鉄所長官に就いている。

乙骨亘(オツコツ ワタル)
1844?-1888、弘化(こうか)元年?生まれ。
儒学者の乙骨耐軒の次男。詩人・上田敏(びん)の父。
第二回遣欧使節団に理髪師として随行。
帰国後、幕府の通訳などをつとめ、維新後は開拓使や内務省に勤務。
第一回遣欧使節団の随行員、上田友輔の息女と結婚し上田家の養子となり、名を絅二(けいじ)と改める。

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