冠と髻・月代

日本人が髷を結う端緒となったのは、冠の伝来による。奈良時代である。
中国から伝わった律令には、装束を定めた衣服令があり、位階、役職、年齢などによって、着用する束帯が細かく規定されている。
冠は、装束ほど細かくはないが、公的には冠、そうでないときは烏帽子を着用する、といった程度である。


冠は後年、公家武官、武士によって形状が違ってくるし、烏帽子も折烏帽子、立烏帽子、また庶民が被るなえ(手編に委)烏帽子などが登場する。

冠を被るときは、後頭上部に髻を結い、冠の巾子(こじ、冠の上部に突起した部分)におさめる。これが冠を着用するときの決まりだ。
結い方も線香ほどの太さの元結で10センチほどの長さに結い、髷先は短く、髪の端を房状に剪った(「相撲人画巻」などの絵による)。
平安時代の公家は、髷を晒すことを非常な恥辱と感じたらしく、寝ているときも体を洗うときも被り物をはずさなかった、という。
髻の結い方は、室町時代になると複雑になり、使う元結も公家は紫、武家は赤、庶民は白で結うようになった。

髷というと月代を思い浮かべるが、当時は総髪で、月代を剃る風習はなかった。
冠を被らずに頭部を晒すことを「露頂」という。戦国時代の末期になり、月代の風習が広まるにつれ、露頂が多くなった。つまり月代の広まりとともに、冠は廃れていった。

もっとも、月代が広まるといっても、総髪の人がいたのと同様、冠、烏帽子も江戸時代になっても朝儀など公的な場では被った。

奈良、平安のころは冠の巾子におさめた髻に髪刺(笄、簪)を通して脱落を防いだが、江戸時代になると冠の形状も違ってくるが、元結いの紐を長く残して、それを冠に絡め顎に回して止めた。

冠と髻・月代の関係のお話しでした。

丘圭・著