有職故実の復活に尽力した光格天皇

江戸時代、光格天皇という天皇がいた。
この光格天皇、長年、途絶えていた朝廷行事を復活させたり、宮中の建造物を再建させたりした天皇として知られる。朝廷行事の再興は、有職故実の復活にもつながった。
いま古式の装束で行う宮中行事は、即位式と婚礼の儀ぐらいしかない。婚礼式は和洋折衷で行われている。和式で婚礼の儀を行ったあと、洋装の騎馬隊とともに、洋式の馬車に乗って行進する。

前述の通り、宮中の儀式や祭祀が、飛鳥・奈良の古代から連綿と執り行われてきたわけでない。室町時代になると、朝廷の経済基盤であった荘園を完全に失い、朝廷は困窮した。古式通りの儀式、祭祀はできなくなった。そんな時代が長く続いた。

戦国時代、織田信長は、天皇より位の高いと思われる天主をめざした。天皇など眼中になかったのだろう。次の豊臣秀吉は、朝廷の位階職制を踏まえ、関白に就いた。秀吉、秀次は朝廷の復活に貢献したといえる。その次の徳川家康は、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。朝廷から任命を受けて就くのだが、それはあくまでも形式上のことで、実権は幕府にある。元和元年(1615年)の公家諸法度で朝廷は幕府の管理下になった。

幕末に尊皇思想が広まる。
その背景には光格天皇の存在があった。光格天皇の朝廷行事や有職故実の再興が、尊皇思想の広まりに大きな役割を果たしたのだと思う。
江戸時代中期、尊皇思想を唱えた学者(山県大弐)が処刑されているが、幕末になると幕府が弱体化しとこが背景にあるのだが、この朝廷行事の復活もあって尊皇思想が敷衍した。とくに幕府に政治ごとを委だねる、という大政委任の考えが、後の大政奉還につながった。

光格天皇は、幕末の孝明天皇の祖父になる。孝明天皇は攘夷で知られるが、幕府との協調をめざした。孝明天皇は、朝廷の仕事として攘夷祈願の祭祀を頻繁に行っている。

江戸時代初期の後水尾天皇も、朝廷行事や有職故実の再興をめざした。後水尾天皇、光格天皇の再興した有職故実は、専門の有職家からは復古調といわれ、軽んじられたらしい。

明治になって、太政官の復活もあって、改めて朝廷行事や有職故実の検討がされるのだが、もともと中国からの伝来した律令に拠っているため、おおもとをたどると結局は中国風になってしまう。そこで、一気に西洋風に改めることになった、といわれる。

光格天皇の最大の功績は、崩御後になるが、天皇号の復活にある。崩御後におくられる天皇号は62代の村上天皇までで途切れており、63代の冷泉天皇から119代の後桃園天皇までは、天皇号ではなく院号だった。約900年にわたり忘れさられていた天皇号を復活させたのが光格天皇である。
なお、63代から119代までの天皇は、大正時代になって天皇号がおくられている。

ちなみに光格天皇は、現在の皇室の祖(閑院宮家)にあたる天皇で、閑院宮家が傍流だったことや、出自(母親)が平民(浪人)の娘だったため、宮中内で相当苦労されたと伝わる。
天明2年(1782年)即位、文政8年(1825年)、仁孝天皇に譲位し上皇になった。最後の上皇である。

丘圭・著

註)天皇の代数については雲上明覧によったが、帝室制度史(帝国学士院)では光格天皇の先代(後桃園天皇)が削除され、光格天皇は119代になる。