鎌倉時代に髪結職は?

「壱銭職由緒之事」は信頼できるか? というテーマで、理美容業界の祖、采女亮政之の真贋について触れた(http://www.kamiyui.net/?p=129)。怪しいところもあるが、完全に否定することもできない、というのが結論じみた内容になっている。

「壱銭職由緒之事」は、采女亮政之から21代後裔の北小路幸次郎が、亨保12年に江戸髪結株仲間の申請に際し、江戸町奉行・大岡忠相(南町奉行)に差し出したとされる。

その幸次郎から4代前の北小路藤七郎は、三方原の戦い(1572)で武田軍に敗れ、敗走した家康公の窮地を救ったことから、それが一銭職のゆわれになっている。

仕事としての髪結職については、「我衣」(加藤曳尾庵、江戸後期の随筆)に「寛永のころ・・・人通りのあるところには竹木の枝を張り回して髪を結った、長暖簾もここに起こり、江戸髪結の始は赤羽根の床が最初である」との記述がある。床屋は長暖簾をつるすのを常としていた。

前述の「壱銭職由緒之事」も、徳川家康が江戸入府の際、岐阜にいた北小路藤七郎を呼び寄せ、藤七郎は赤羽根に住んだ、とある。

鎌倉時代、武士は合戦のとき月代にしたが、まだ剃る風習はなく、毛抜きで抜いていた。しかも当時、男性は冠や烏帽子の冠り物をつける風習だった。月代を剃るようになったのは、頭に冠り物を載せない露頂が一般化した戦国時代からである。

月代を剃るには人の手を煩わせなければならないが、鎌倉時代、旅をする武士は自分で髻を結い、烏帽子をかぶれば事足りる。

鎌倉時代に、髪結職があった可能性は低い。しかも、「壱銭職由緒之事」で、天皇から預かった刀をなくした采女亮政之の父、藤原晴基は北面の武士とされる。位階も高い。そのような高貴な武士は人の髪を結うことはない、というのが研究者の見方だ。

北小路藤七郎が徳川家康を助けたくだりは事実の可能性が高いが、藤原采女亮政之の話になると、どうも髪結職を権威づけるために、北小路幸次郎が作り上げた可能性が高そうだ。

仕事しての髪結職は、露頂が普通になった江戸時代になってから、とみるのが正しいようだ。
かといって、理美容業界の祖、采女亮政之を否定するものではない。采女亮政之は理美容の仕事に携わる人のアイデンティテーとして、これからも存在する。

丘圭・著