佐渡の髪結床は、19世紀はじめに誕生

髪結床は江戸時代初期、17世紀中ごろには存在していた。そのころ江戸赤羽村に床屋があったという。大阪、京都でも、その前後には髪結床は存在していたものと思われる。

月代剃りや髷は、自前で行うのが習いだが、三都には月代を剃る家族がいない単身者が多く、髪結床が必要だったので、髪結床がいち早く誕生した。
その髪結床は、江戸時代、経済の発展とともに、各地で営業した。三都に次ぐ城下町や街道沿いの大きな宿場町などは江戸中期までには髪結床は営業していたが、小都市では幕末まで待たねばならなかったようだ。

幕末、幕府の直轄地である佐渡で著された「浮世話」という書に、髪結床の発生が触れられている。
「文化4年(1807年)ころ髪結できる。相川 濁川町(にごりかわまち) 瀧蔵一人のようす。それより追々できる。」
と、佐渡一番の町、相川に瀧蔵という床屋が床を構えたのが最初で、徐々に増えた、とある。
文化9(1812年)年には、「髪結近年相増し」とあり、5年間で10軒にまで増えた、と記載されている。

江戸時代も後期なると、庶民の経済力は豊かになり、自前でするより専門の髪結職人に剃って、結ってもらうようになり、その需要に応えるべく髪結床も増えていった。

ところが髪結床が増えると、既存の床屋は儲けが減る。または減ることを懸念した。そこで、奉行所に働きかけて、鑑札や株仲間で増えすぎを防いだ。
「浮世話」には、佐渡でも鑑札や株仲間が組織されたとある。

床屋の乱立を防ぎ、また髪結の職人を雇うことで、既存の床屋の利益は守られ、稼ぎは増えた。
鑑札や株仲間は髪結床だけなく多くの稼業で行われるのだが、その結果、庶民は不自由することになる。今度は、庶民の不満を和らげるために奉行所は鑑札をやめたり、株仲間を解散させたりと定見のない治世を行った。それが江戸時代後期の江戸幕府の実情だったようだ。

参考文献:「百姓の江戸時代」(ちくま新書)

丘圭・著