熈代勝覧に描かれた床屋、回り床屋

江戸時代後期の江戸の町の繁栄を描いた「熈代勝覧」という絵巻物があり、その絵のなかに髪結床、回り床屋が描かれています。
「熈代勝覧」は左右12メートルにも及ぶ長大な絵巻なので、床屋、回り床屋が描かれている部分のみをカットして掲載しました。

「熈代勝覧」より
「熈代勝覧」より

上の絵には鬢盥(ビンダライ)を持った回り床屋が描かれているます。よろず屋(二階が黒い家、真珠散売り)とその右の俵屋(わきが妙薬売り)の間の細い路地を入って稼ぎにいくところなのでしょう。

下の絵には床屋が描かれています。
左の橋は、日本橋でこの界隈の賑わいは大したものです。この絵の下には魚河岸があり、市場の賑わいが日本橋まで続いているようです。床屋は橋のすぐ上にあります。茶色の屋根の右側がそれです。

床屋は、享保の改革以来、株仲間が認められ1町に1軒が基本になっていますが、橋の近くにも床店を構えることが多かったようです。簡単な床張りで仕事ができ、万が一の火事の時には、取り壊して橋からの類焼を防いだ、といいます。床屋は様々な番役を担っていますが、橋の近くに床を構える床屋は橋番をしたようです。橋が傷んだりした場合は、町奉行に知らせる、そんな役目だったのでしょう。

床屋はテリトリーがあり、弟子たちに得意先を回らせ仕事をさせていました。これが回り床屋です。株仲間、テリトリーなどは天保まで続いたのですが、株仲間の規制がなくなると、床屋、回り床屋は急増したといいます。

なお、「熈代勝覧」はドイツの国立アジア博物館(ベルリン)に保管されていますが、2009年にその複製が営団地下鉄「三越前)駅のコンコース壁面に展示されています。

余談ですが、下の日本橋の賑わいは作者(不詳)が、賑わいぶりを強調するために立錐の余地もないくらいの混雑ぶりに描いたものだと思います。これでは怪我人がでてしまいます。前口上にも書きましたが、絵画史料はデフォルメ表現が多くありますので、注意が必要です。

また、「熈代勝覧」の制作年について、ドイツの国立アジア博物館は、文化2年(1805年)としています。これは巻絵中の表記からとったものですが、文化2年以降と捉えたほうがいいでしょう。天保年間に埋め立てられた今川堀が描かれていますので、1805年から1830年ごろにかけて製作されたものと思います。