横浜開港でやってきた清国人

幕末の安政6年(1859)、横浜が開港されると、多くの西洋人が横浜に居住しました。
西洋人は、清国の中国人を使用人として来日し、横浜に来た外国人の半数以上は清国人だったといいます。

清朝婦人雲髻図として描かれた絵(「近世風俗志」より)
清朝婦人雲髻図として描かれた絵(「近世風俗志」より)

英国、仏国、オランダ、プロイセン(独国)、米国などの人はいまのシルク会館からマリンタワーに至る、いわゆる横浜から、横浜本村(現・元町)に続く丘陵に居住しましたが、清国人は横浜に隣接する干潟(当時は水田。横浜水田)を埋め立てた場所に住んだといいます。埋立地だけに横浜より低く、水はけが悪くて居住には向いてなかったようです。それが今の中華街のもとです。

守貞さん、自著の「近世風俗志」で、横浜の清国人がしていた辮髪を紹介しています。
「三ツ組にして背に垂る」とあり、三つ編みに結った髪を垂らしたとあります。結った髪の先は紅色、あるいは萌木色の糸でとめる、と書いています。

辮髪の周囲は剃ります。「剃頭人」に来てもらって剃ってもらうときは5、60銭、「剃頭店」に行って剃ると、10銭あるいは15銭、とあります。「剃頭人」は廻り髪結、「剃頭店」は髪結床のこと、と記しています。
横浜だけのことかもしれませんが、廻り髪結のほうが高い料金をとっていたようです。廻り髪結、いまいうところの出張理美容です。

また守貞さん、横浜で見た清国人女性の髪型を描いたスケッチも残しています。それを見ると輪髷(図)です。江戸時代の初期にも輪髷がみられました。
江戸時代は鎖国していた、と教科書にあります。ですが、明から清に代わる江戸時代初期、日本に亡命的に訪れた明国人女性もいたようです。その影響を受けて、日本でも唐風の輪髷を結う女性がいたのかもしれません。もっとも、輪髷は日本女性の好みに合わなかったのか、廃れてしまいます。

丘圭・著