月代の定着に貢献した織田信長

織田信長(天文3年1534~天正10年1582)は、戦国乱世の終焉に道筋をつけた武将として、日本人なら知らない人はいないくらい有名な英雄です。

織田信長の肖像画(長興寺蔵)
織田信長の肖像画(長興寺蔵)

信長は、若いころ奇妙な行動をすることがあり、「信長公記」(太田牛一)によると、「尾張の大うつけ」と呼ばれていた、とあります。奇妙な行動のなかには、女の服を着たりとか、とかく目立つ行動があったといいます。

嬉遊笑覧」によると、その信長が将軍上洛に際して、「信長に同心せんもの、月代を広大にして半頭を剃り下髻をすべし」と命じたと「織田の家記」にあると紹介しています。史実から永禄11年(1568)ころのことと思われます。
出所の「織田の家記」は不明なのですが、おそらく前出の、信長に仕えた太田牛一さんが江戸時代初期に書いた「信長公記」かと思います。

信長の肖像画(と伝わる絵)を見ると、信長は月代を大きくし、下髻です。つまり、自分と同じような頭にしてついて来い、と命じているようです。配下の武将たちの肖像画は冠を被ったものが大半で、実際の髪型は不明なのですが、月代し、茶筅髷にしていたのではないかと思います。

月代は、平安時代後期の武士がしたのが始まりとされています。
江戸時代の月代とは違い、天頂部を丸くしただけのもので、江戸時代の中剃に近いものだと思われます。しかも、当時は剃るのではなく毛抜きで抜いていました。この風習は戦国時代にまで引き継がれ、当時日本を訪れたルイス・フロイスの著書にも紹介されています。剃刀は仏教の伝来とともに、日本に伝わっていましたが、その剃刀が使われなかったのが不思議です。

本朝世事談綺」(世事談)によると、信長は月代を剃刀で剃るようにも命じ、これを契機に堂上人が眉毛を剃り落とすときに使っていた剃刀(眉剃・まゆたれ、といいます)を大きくした剃刀、後の日本剃刀が誕生した、と伝わります。
大月代を毛抜きで作るのは、さすがに辛かろうと信長が思ったか、どうかはわかりません。おそらく自身は剃刀で剃ってもらっていたのでしょう。

また、戦国時代までは男性は頭に烏帽子や冠などの被り物をつけるのが常でしたが、戦国時代後期になると、戦さが日常化したためか、この風習は薄れ、頭に何もつけない露頂が普通になってきました。戦時のみしていた月代が日常のものになっていったのです。ただし、公的な場では江戸時代も冠、烏帽子を被っていました。

信長は、江戸時代の男子髪型の基本になる月代を定着させる一つの契機をつくった立役者ともいえます。
派手なことが好きで、目立ちたがりやの信長は、室町時代のバサラの流れを引き継いだ人物でもあったのです。この派手好み、異装趣味は、江戸時代初期のかぶき者、六方者、さらに、きおい組などに伝わったいったのかもしれません。