寛政のころには活躍していた女髪結

「近世風俗志」には、「ある本に曰く」という表現があり、引用元がわからず困るのですが、仕方ありません。ここは著者の喜田川守貞さんを信じるほかありません。

「ある寛政中の古写本に曰く」とありますから、寛政年間(1789年~1801年)、江戸後期の写本のようです。続いて、このように記述されています。

……寛文・延宝のころまで、伽羅油、元結なし。町人は五人組、鬢、水入り壱つ櫛一枚あり。毎朝起きて櫛に水付け、鬢かき上げて観世こよりにて髻を括り、それより隣家へ廻しける。百姓皆藁科にて括り……、とあります。

寛文・延宝は1661年から1681年、江戸前期のことです。前述の寛政のほぼ100年前になります。
町人とは、裏長屋の住人だと思います。町人は五人組を一つの単位として、髷を結う道具を使いまわしていたようです。百姓の髻は藁で括っていたのがわかります。

さらに続けて、「わづか百年余りの間に」と100年後の変化を書いています。
寛文年間から100年後というと、寛政から文化文政、江戸時代後期になります。これを書いた人が生きていた時代でしょう。
新たに誕生したものとして、稲こきの黒鍬、千ごく通し、水車の碓臼、陶器の焼接、進物に酒の切手、少女の襟かけ、義太夫の抜本、、、などに混じって、女の髪結が上げられ、女髪結が目立つと書いています。

この一文から、寛政のころには、江戸市中のことと思われますが、すでに女髪結が目立って活躍していたのがわかります。
女髪結は寛政の改革、天保の改革で規制を受けるのですが、いっときは自粛するものの、しぶとく営業を続けます。豊かになった社会から必要とされていた職業だったといえます。

寛政のころには、灯籠鬢などをはじめ装飾性が高く、鬢差しや小枕、髢などの小道具を必要とする髪型が誕生しました。これらの華やかな髪型は、一部の遊女や富裕層の子女に好まれていたようで、それらの髪を作るには、専門の髪結の技を持った女髪結が必要とされていたのだと思います。

さらに庶民の生活についても、夏日は菅笠を被っていたものが日傘にとってかわったり、百姓の家屋も土間に糠を厚くしてその上に筵(むしろ)を敷いていたものが、板はりに青畳を敷き並べているようになったり、また農業をいとい、いづれの村里も商いするものの多くなり、、と生活様式や経済が急変していることを紹介しています。
17世紀後半から18世紀後半にかけて、庶民の生活は大きく変革したのは確かなようです。

月代が庶民にまで普及した17世紀中ごろ、一銭剃りといわれる床屋が江戸に誕生しましたが、それから遅れること約100年、女髪結も江戸の町で活躍しています。

床屋はいまの理容、髪結はいまの美容です。床屋の客は男、髪結は女でしたが、21世紀のジェンダレス社会のいま、理容美容の境界はほぼ消滅しています。

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