勤番武士の髪結

江戸後期、紀州藩の武士が書いた「酒井伴四郎の日記」があります。紀州から江戸にいき、江戸詰めの日常生活を記録していますが、その中に勤番武士の髪結風景が登場するので紹介します。

酒井伴四郎さんは、紀州藩大番組、30石の下級武士。江戸に向かったのは、万延元年(1860)5月、28歳の時です。
江戸では紀州藩の赤坂上屋敷にある「相の馬場勤番長屋」に、叔父の宇治田平三さんと、同僚の大石直助さんの3人で住みます。
叔父の平三さんは藩の衣紋方で、伴四郎さんと直助さんはその見習い。この3人で共同生活をはじめます。

同居人の直助さんは器用だったらしく、日記の主の伴四郎さんの髪を結っています。江戸に着任後間もない6月22日に上役にあいさつにいく際、伴四郎さんは直助さんに髪を結ってもらっています。
伴四郎さんは、月にだいたい7回ほ直助さんに髪を結ってもらい、その料金は1回20文。町の髪結床や回り床屋にやってもらうより格安です。幕末の当時、髪結の料金は28文か32文、それに心付けを渡すもの、とされていました。

この直助さん、本職は武士なのですが、髪結をアルバイトにいしていたようで、紀州藩に出入りする商人の髪も結っていたらしく、9月9日に出入りの商人があいさつに藩邸にやってきたおり、上総屋という商人が大石さんに渡した手ぬぐいについて、伴四郎さんは「是は髪結候礼ト相見」ると書いています。
どうやら、この直助さん、髪結アルバイトを手広くやっていたようです。それだけ腕があったのかもしれません。

同居の勤番武士から金銭を受け取るかは別にして、長屋に同居する者同士がお互いの髪を結い合っていたのは普通だったようです。武士は剣道の稽古中など激しい運動すると髻が外れることもあり、そんなときは仲間の髷を結い、結構手慣れていたのだと思います。

また、下級武士の家では、少年期は母親、結婚すれば嫁が亭主の髪を結うのが習いだったといいます。

「酒井伴四郎の日記」には、飲み食いの記述がやたらに多くあり、きっと伴四郎さん、食い道楽だったのでしょう。食べるだけでなく、手料理も上手らしく、作り置きした総菜を叔父の平三さんに食べられてしまった、と悔しがったりしています。

伴四郎さんが江戸に着く3月ほど前には桜田門外で大老の井伊直弼が水戸藩士らによって殺害され、世は浮雲急を告げていたはずですが、伴四郎さんは太平楽のゴーイングマイウエイです。好奇心も旺盛な酒井さんは、横浜まで出向き、外人を見物し、外人相手の遊女がいる岩亀楼に上がっています。

酒井伴四郎さんより、やや遅れて書かれた尾崎石城さんの「石城日記」も同様です。マイペースな日常が綴られています。
幕末、尊皇攘夷の過激な運動が日本国中に吹き荒れていたのかと思っていたのですが、実際のところは、多くの武士、町人は相も変わらずの日々をおくっていたようです。

丘圭・著

参考文献
『江戸っ子』(中公文庫)、『下級武士の食日記』(増補版、ちくま文庫)