延宝7年、808町に1町1軒の髪結床

戦国末期、一銭剃りの名で誕生した床屋ですが、当時はその名の通り、月代剃り、中剃りを仕事にしていたようです。髷を結うようになったのは、江戸になってからといわれています。江戸では赤羽村付近で髪結床を張って営業したのが最初とされています。大坂、京都ではそれより前に営業を始めていたかも知れません。

この手の「初めて誕生」話は史料によって違い、確定するのは難しい。一説には、月代剃りが誕生したのは1573年、床屋は1605年という説もありますが、参考程度と理解したほうがいいでしょう。なんといっても、新しい史料が発見されて、従来の説が覆ることが多いのが歴史です。まして、庶民の生活に密着した仕事となるとアバウトです。とても年数を特定できません。

江戸の町は寛永(1624~)のころは約300町あったのが、人口の流入とともに増え、延宝7年(1679年)には808町を数えています(出典・『寿余一得』)。この年、1町に1軒の髪結床が免許された、といわれています。享保(1716~)の改革の前で、これが床屋稼業が公的に認可され、江戸の町の自治組織に組入れられた最初のようです。

髪結は生活に密着した仕事だったためか、料金は24文に決められ、髪結職は自治の一端を担う番役を担うことになったのです。料金にしても24文、28文、32文といった説もあって、地域、あるいは時代とともに変化したのかもしれません。
番役も橋番、駆け付役、自警役など場所や地域によって、いろいろだったようです。

江戸の町は、延享3年(1746年)には1678町まで増え(出典・『延享世説』)、それに合わせて髪結床も増えているのですが、以降は人口の増加は停滞しています。

江戸時代は265年続きます。この間、緩やかに物価は上昇、インフレになっています。しかし、髪結の料金は公定のままで上がっていません。江戸後期になると、髪結の料金が安すぎるとわかっている、町人の多くが公定の料金のほかに心付けを置いてくるのが習いになっていたといいますが、江戸後期に書かれた武士の日記を読むと、心付けを置いてきた気配はありません。

江戸の町では、初期のころはともかく、中期以降になると、武士は江戸っ子から小馬鹿にされる存在だったのは、そのケチぶりも一因だったのかもしれません。

「初めて誕生」話のついでに、女髪結が誕生したのは、明和元年(宝暦14年、1764)大坂といわれています。江戸はそれから遅れること26年、寛政2年(1790年)という説があります。

月代剃り、髪結床にしろ、女髪結にしろ、「初めて誕生」年を決めつけてしまうところが凄い。

丘圭・著