月代(さかやき)考

江戸時代に男子の風俗として広く行われるようになった月代(さかやき)だが、この月代は平安時代末期、源平の頃に現われた、という。

源義経の肖像画(中尊寺)
源義経の肖像画(中尊寺)

中尊寺が所蔵する源義経の肖像画は、月代をしている義経が描かれている。
烏帽子をつけているが、確かに月代をしている。髷は、冠下髻(かんむりしたのもとどり、冠下一髻ともいう)といわれる髷をしているのだろう。冠下髻というのは、7世紀初め、冠位十二階が定められて以降、貴族など高貴な男子が冠の下に結った髷である。
もっともこの中尊寺の肖像画、江戸時代に描かれたと伝わるので、細部の描写についてはあてにならない。

平清盛の義弟、平時忠が月代をしていた。当時の貴族(九条兼実)が書いた日記「玉葉」に平時忠が月代をしていたことが記されている。平時忠は公家の出だが、当時は公家も月代をしていたのが「玉葉」からうかがえる。

源平の頃から月代はあったのは間違いないが、武士がいつも月代をしていたかというと、そうではなく戦うときだけ月代をしたらしい。臨戦状態になると、急ぎ月代にして戦さに臨んだ。
公家がしていた月代は、冠をかぶる際、前髪が冠の玉縁(たまやり)からこぼれれるのを防いだためと思われる。公家は総髪が普通で、月代といっても武士がした月代とは違い、前頭部を月代にしたと考えるのが自然だ。

武士が月代にしたのは非常に現実的な理由からだ。兜をかぶると頭が蒸れて、意識が朦朧とする。それを避けるために頭部を剃って、通気をよくした。頭が蒸れて朦朧としては戦さどころではない。
武士と公家とでは、月代をする目的が違う。

月代の語源については諸説ある。逆気(さかいき)とする説が有力だ。上せた気を下げるのが逆気で、これが変じて、さかやき、になったという。
さかやき、を「月代」と表すのも不思議だ。日本語には妙な当て字があるが、月代などはその最たるものだろう。月代は、つきしろとも発音する。貴族の月代がつきしろ 武士が月代が、さかやき、それが合体してできた言葉かもしれない。まったく史料のない、つまり根拠の無い推測にすぎないが。

冠下髻のイラスト
冠下髻のイラスト
インターネットから採取したイラスト。伴大納言絵詞に描かれた清和天皇の絵に似せて描いたようだ。

剃刀は仏教とともに6世紀中ごろ日本に伝来した。平安時代後期には広く普及していてもおかしくない。だから月代は、剃刀で剃った可能性が高いと思われるのだが、毛を抜いて月代にしたという説もある。数本抜く程度ならともかく、大量に毛を抜いたのでは、炎症を起こす恐れがある。毛を抜いて月代にした人がいたとしても少数派だろう。

時代が下がり、江戸時代になると剃刀を使って月代にした。しかし、初期の頃に登場した傾奇者の中には毛抜きで大月代にした逸話が伝わる。やはり平安時代末期から鎌倉時代にかけては毛抜で月代にすることも否定はできない。

戦闘に際して万全な身支度をするための月代なのだが、この月代が広く行われるようになったのは江戸時代。江戸時代の260年は戦さのない平和な時代だ。平和な江戸時代に、臨戦態勢の風俗である月代が武士の定番スタイルとなったのは、なんとも皮肉なことではある。

余談だが、前述の冠下髻は冠とともに、天皇家・宮中、公家の間で、明治になるまで連綿と受け継がれている。庶民の風俗が大きく変遷する中で、さすが伝統と格式の社会である。宮中女性のする垂髪も同様である。(正確には、少しの変化はしている)

丘圭・著