洒落本にみる女髪結

『当世気転草』(とうせいきどりぐさ)という洒落本に髪結の料金の記述があります。金々先生著『当世気転草』、とのタイトルがあるのですが、あの恋川春町が別名で使う金々先生とは別人とされています。安永2年(1773)の出板です。

娼家について書かれた個所に「近年女髪結行われて‥‥、本結は弐百に極り、本多は百、なで付けは五十‥‥」とあります。技術メニューによって、弐百文、百文、五十文と違います。本多とうのは男髷で有名ですが、遊女の結う髷にも本多という名称の女髷があったのか、娼家にいる男衆に本多髷を結ったのかは不明です。『当世気転草』では江戸の岡場所が紹介されていますが、この娼家は深川のようです。
いづれにしろ、床屋の料金が24文か28文だったのに比べると高額です。

また、『南門鼠』(みなとねずみ)という洒落本にも女髪結の記述があります。作者は塩屋艶ニという戯作者で、寛政12年(1800)の出板となっています。品川のことが詳細に記述されているので、それが理由で官禁絶版の処分を受けたといいます。
この類いの洒落本は寛政の改革で発禁処分されたものが多くあり、寛政の後期には復活したといいます。寛政12年に出板されたのは再板の可能性が高いようです。

品川の娼家の家々の特徴、もちろん遊女や料金が記述され、それぞれの家々に出入りしている女髪結の名が書かれています。当時、女髪結は決まった娼家に出入りし、その家の遊女の髪を結っていたのがわかります。

髪結や床屋の歴史を語った書籍には、女髪結の誕生を江戸は1790年、大坂では1764年と記載しいるのを散見しますが、前述の洒落本が正しければ、江戸ではもう少し前から女髪結が活躍していた可能性が高そうです。

誕生物語、初めて物語は、こと風習や風俗に関しては、「おおよそ」として理解したほうがよさそうです。

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丘圭・著