女髪結の誕生

『守貞謾稿』(喜田川守貞、近世風俗志)に、「寛政の頃、女かみゆい人稀なり。一度百文。」の一文があります。寛政(1789~)といえば18世紀末、江戸後期です。

また、守貞さんは『思出冊子』(*)という書物を引いて、寛政の頃「女髪結という者出来」と記しています。

女髪結は、歌舞伎役者の山下金作という女形(おやま)役者付きの結髪師(男)が深川の遊女の髪を結ったのが始まりとされます。この山下金作という女形は上方の歌舞伎役者で、明治まで6代続いた名跡です。

深川の遊女を結った髪結の名前は伝わっていませんが、その教えを受けた髪結は甚吉といい、その甚吉が女性に髪結の技を教えた、と伝わります。
寛政の頃、女髪結は誕生したばかりで数が少ないことから、前述の通り髪結の料金は百文で、男の髪結床の28文に比べ高料金をとっていたようです。

後年、女髪結が増えると料金も下がった、といいます。需要と供給のバランスで対価は左右されるのですが、料金が下がることで、それまで遊女など限られていた客が、富裕な商家の女性らに拡大していきました。

幕府の贅沢を禁じる触れで、たびたび女髪結は禁止されるのですが、それだけ需要があったことの証左ともえいます。

前述の通り、女髪結の始まりは、山下金作という女形(おやま)役者付きの結髪師による、という説が広く伝わっていますが、これはあくまでも江戸での話です。

京坂では、前述の話より約20年ほど前に髪結がいました。やはり歌舞伎絡みで、カツラ師の女房が亭主の技を見よう見まねで覚え、遊女らの髪を結ったと伝わります。

江戸時代中ごろまでは、文化や流行の発信地は京坂でした。日本髪も上方の流行が江戸に及んだ、といいます。流行の中心が江戸になるのは江戸後期になってからです。

丘圭・著

(*)『古今雑談思出冊紙』(東随舎)のことか?

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