江戸における、二つの女髪結起源説

江戸での女髪結の出現は、安永の末ごろ、上方歌舞伎の女形、山下金作付きのカツラ師(床山)が深川の遊女に結ったのが始まりという説が、多く紹介されています。

その弟子の甚吉がさらに女の弟子をとり、女髪結が江戸に広まったことになっています。この説の出所は、『蜘蛛糸巻』(山東京山)です。
山下金作は明治期にまで続く、上方女形の名跡で、前述の山下金作は2代目といいます。没年は、寛政11年、67歳。

この説を知ったとき、江戸時代の遊女の中には、○奴、○吉など、男名の源氏名を名乗る遊女がおり、甚吉は年季明けの年増遊女かと思ったのですが、それは違うようです。
ですが生来女性のような気性があり、自分は男と思っていなかったらしい。だから、平気で遊女相手に仕事をし、女の弟子をとったのでしょう。

甚吉は、髪結銭として百文をとったことから、通称「百さん」「お百さん」とよばれました。八丁堀大井戸に住んで、女の弟子を連れて、芸者・遊女、囲い者などの髪を結って歩いたといいます。

この説は、江戸における女髪結起源説として広く伝わっています。安永の末ごろといいますから、1770年代後半になります。
山下金作説は、以前このコラムで『守貞謾稿』(喜田川守貞、『近世風俗志』)を紹介しましたが、引用元(『思出冊子』)が異なり、年代も『守貞謾稿』の方が後年になります。

この山下金作・甚吉説とは別の説があります。

『百々噺』(延享元年)に、「…仙吉の娘に松というものありしが、古今の醜女にて年頃になりても縁なく、生涯を埋木に…、この松は顔立の醜きに似合わず、手業は器用にて女の髪結ふこと別けて得手なりけるより、初めは誰れ彼れに頼まれ髪を結遺りいたり。去年の夏ごろからは…、二尺ばかりなる看板を路口に出し、『御女中方の髪結所候』と書きしるしたり…」とあります。
これは寛保2年(1742)、江戸堺町の話です。お松さんの親の仙吉は中村富三郎という役者のカツラ師(床山)といいます。

このお松さん、山東京伝の『浮気小町流行末』に「むかしは堺町のお松に髪も三日目に結わせ…」、また『一睡胡蝶夢』(柴舟庵一双)にも「堺町に名うての髪結お松さんを呼ぶには迎いの三度は定のこと」とあり、お松さんの活躍ぶりを紹介しています。お松さん、女髪結起源説の有力候補です。

江戸時代、女性は自分で髪を結うのが習わしでした。10歳ごろから結髪の稽古を始めて、覚えるのに苦労した話が伝わっています。遊女も自前髪結ができることが入郭の条件でした。武家の女性はもちろん、町方の女性もいうまでもありません。自前髪結の習わしは江戸期を通じて明治に至るまで続きます。

女髪結に結ってもらうのは、ごく一部の遊女や妾などに限られていました。しかも自前髪結が建前ですので、結ってもらうにしても、ごく内々になります。
史料に出てくる女髪結起源説は、前述の二つの例のどちらかと思いますが、実際にはこれ以前に行われていたものと推測されます。なにしろ女髪結に結ってもらうのは内々ですから、史料に残らない事例もあるはずです。

風習、風俗に起源年を特定するのは、あまり意味のないことですが、18世紀中ごろには江戸に女髪結がいたのは間違いありません。

丘圭・著