おすべらかし(大垂髪)

大垂髪(おすべらかし)は、いまでも皇室の女性が婚儀などに際して行う髪型です。近年では、2014年に高円宮妃久子さまの次女、典子さまが出雲大社の権宮司、千家国麿さんとのご結婚の際におすべらかしにしました(写真)。

おすべらかし、といっても時代によって変化しています。平安型大垂髪、室町型大垂髪、江

高円宮妃久子さまの次女、典子さま(上)と秋篠宮紀子さま(写真/宮内庁、本文に説明あり)

戸大垂髪の3つに区分されます。

奈良時代、天武天皇が大陸にならい「今より以後、男女、ことごとく髪上げよ」(白鳳11年、『嬉遊笑覧』)と命じました。以後、男は髻と冠・烏帽子が定番になったのですが、女は、女官らは一時髪を上げて結ったものの、「髪上げ」の風は日本の女性には受け入れられず、髪は下がってしまいました。

平安時代の王朝絵巻に見られる、長い髪を後ろに流した女性たちです。この髪型は、平安時代から鎌倉時代まで続く、宮中の女房風俗でした。長い黒髪を愛でる風はこの当時から続く日本の伝統といえます。

室町時代になると、複数のかもじを使い、背中で結んでつなげて長くしました。鎌倉時代までの宮中の女官は後ろで髪を結ぶことはなかったので、画期といえます。髪を結ぶのは労働する市井の女性らです。長い髪では、何をするにも不自由です。

室町時代の宮中の女性は普段は長くはない髪で、宮中行事があるときにかもじをつなげて長い髪にしていました。それには時代背景があります。室町時代になると宮中、皇室の経済力が低下し、権威も陰り、世間から忘れ去られた存在になってしまったからです。室町時代から江戸時代までの約300年、宮中は存続はしていたものの、公家にとっては冬の時代でした。財力が乏しく、いにしえから続く多くの宮中行事がこの間途絶えました。

宮中が長い冬眠から目をさますのが江戸時代です。幕府の管理下とはいえ、一定のあてがいぶちを得たことで、いにしえの宮中行事や有職故実を復活させたり、宮廷建造物の再建を幕府に要請して再興させました。とくに霊元天皇、現皇室の祖・閑院宮家の光格天皇が熱心に活動しました。

江戸大垂髪も江戸時代に復活した髪型です。復活といっても、他の建造物や宮中行事が基本的に古式にのっとり復活したのに対し、江戸大垂髪は平安型大垂髪、室町型大垂髪とはまったくといっていいほど別物として復活しました。

古式にはなかった鬢さしや鬢付け油を活用して誕生したのが江戸大垂髪です。時代背景として、江戸初期に大陸が明から清に変わったことをあげる人もいます。漢民族の明国から女真族の清国になったことで、大陸を尊ぶ中華思想が希薄なり、国風の文化を追求したからというのです。
ですが個人的には、日本人の美意識と道具類の革新によって誕生したのが江戸大垂髪だと思います。前髪から鬢を左右にハート型に張り出し、前髪の中央部に丸かもじを装着し、さらにサイシや櫛を添えた、高貴で威厳のある髪型です。
この江戸大垂髪は平成のいまでも婚礼など重要な宮中行事で登場する髪型です。

宮中の伝統とはいえ、時代ともに変わるものです。江戸時代とは美意識も、また道具類も大変革した平成の時代です。21世紀にふさわしい、日本の文化を今に伝える、すべらかしが登場してもおかしくないのですが。

余談ですが、徳川幕府が公家を支えたのには、公家の権威を活用することで幕府を権威づける狙いがあったからです。当時の服忌令をみても喪に服する期間は将軍の方が天皇より長く、最高位は将軍で、その下に天皇を置いていました。
江戸中期までは、尊皇思想は厳しく断罪されていましたが、後期になると幕府権力が衰え、やがて幕末の尊皇倒幕思想へとつながっていくのは歴史の流れとはいえ皮肉なことです。

【写真説明】上・結婚に際し「賢所皇霊殿神殿(かしどころこうれいでんしんでん)に謁するの儀」にのぞまれる、おすべらかし姿の高円宮妃久子さまの次女、典子さま(2014年10月2日)。下・1990年(平成2年)6月29日、成婚の儀で、おすべらかし姿の秋篠宮紀子さま。式正にふさわしく、サイシや櫛を添えた、おすべらかしです(写真/宮内庁)

丘圭・著

おすべらかし(大垂髪)
別名:すべし髪、すべし髻、下げ髪、垂髪
現在は、おおすべらかしのカツラを装着することが多い。

おすべらかし(大垂髪)」への1件のフィードバック

コメントは停止中です。