衣服礼法が家職の高倉家と山科家

おすべらかしの稿(http://www.kamiyui.net/?p=337)で、江戸時代の宮中のことに触れましたが、宮中での衣服については、高倉家と山科家が家職にしていました。

宮中の職を紹介した『諸家稼業』(寛文8年/1668))によると、衣服の礼法を家職とする堂上家家として、三条、大炊御門、高倉、山科の4家をあげています。三条、大炊御門については「現在はそのこと断絶」とあります。この4家は代々、衣服の礼法や衣服に関する有職故実を家職としていましたが、寛文のころには三条家、大炊御門家の両家は衣服の礼法から離れ、高倉、山科の両家が担当していたのがわかります。

『諸家稼業』では高倉のあとに武家としるされており、高倉家は武家の衣服の礼法についても指南していました。武家では吉良家、石橋家、今川家などが高家として幕府の礼法や典礼の作法などを担っていましたが、高倉家はこれら高家などを指南し、武家流の礼法、典礼をつくるのに力添えをしています。

戦国時代後期になると、普段は烏帽子など冠り物の装着をしなくなりましたが、武家は典礼の場では折り烏帽子を冠り、また衣服についても位階や所領地の石高などによって細かく規定された装束でのぞみました。

高倉家は武家と関わりがあったこともあり、幕府から812.7石をあてがわれています(『寛文朱印留』)。格式の高い5摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)は1000石台が多く、かなり厚遇されていたのがわかります。武家とは関わりの薄かった山科家は、他の堂上家と同レベルの300石でした。

吉良家など高家が礼法や有職故実に詳しいからといって、直接将軍の衣服を装着したりすることはありません。将軍の近くに使える小姓らを指南し、時には稽古をつけて、小姓が将軍の身の回りを世話していました。大名家でも同様に、武家の礼法や有職故実に詳しい家来(少禄の武士か多い)が殿様の近くにつかえる小姓に稽古をつけていました。

衣服の礼法に関しては専門知識が必要でしたが、月代や髷結いについては衣服ほど専門知識は必要ありません。手先が器用で信頼の厚い小姓が将軍や殿様の頭にあたっていました。

余談ですが、忠臣蔵で赤穂浪士に討ち取られた、吉良上野介義央は高家の出で、礼法指南役の筆頭でした。東山天皇と霊元上皇の勅使供応役に任じられた淺野内匠頭の礼法指南役だったのが吉良上野介です。
淺野内匠頭がなぜ吉良上野介にを切りつけたかについては、事件後いきさつを聴取した幕府目付役の『多聞筆記』(多聞重共)や、現場近くに居合わせた梶川頼照の『梶川筆記』をみても、その理由は不明です。

丘圭・著