日本髪 東西の境は?

東日本と西日本の境は、愛知県から静岡県あたりにあるらしい。静岡県は安倍川、富士川、大井川など大河が複数あるので、それが文化的な交流の障壁となって、東西を分けているのかもしれません。

江戸後期の丸髷(上)と両輪。いずれも一例。

電気のヘルツは富士川から東は50ヘルツ、西は60ヘルツです。卑近なところでは、バカ・アホ、味の濃さ、どうでもいいところでは天津丼の餡かけの色などなど、東西で違うといいます。

江戸時代後期、年増女の髪型は、江戸は丸髷、上方の京坂は両輪が結われていました。
この年増の髪型の境は、三河の国、いまの愛知県になります。

『近世風俗志』の喜田川守貞さんによると、
両輪(京坂)と丸髷(江戸)と、東西に分かつこと、大略三河国岡崎駅以西両輪、乃ち当駅両輪の婦十に九人、丸曲十人に一人、吉田駅以東は丸髷を専らとす、当駅丸曲を専らとして、大概十人に九
とあります。
岡崎駅は両輪を結う年増が九割、吉田駅では丸髷を結う年増が九割とのことです。

吉田駅は愛知県豊橋市、岡崎駅は愛知県岡崎市にあります。東海道53次の順番では、吉田駅が34番、岡崎駅が38番です。両駅の間に御油駅、赤坂駅(いづれも豊橋市)があります。吉田駅から岡崎駅までは、両輪と丸髷が混在している、と守貞さんは観察しています。

喜田川守貞さんは、上方の出身で江戸の商家に養子として迎えられた人で、家業を経営するかたわら、東西を何回か往復しています。几帳面で誠実な守貞さんの実見なので、前述の叙述は実態に近いものでしょう。

ところで、江戸時代後期、江戸では年増は丸髷、年増でない若い女性は島田髷が多く結われていた、と伝わります。京坂では、年増は両輪、年増でない女性は先稚児、雌おしどりといった髷を結っていた、といいます。

江戸時代の中頃までは、文化の発祥は京坂で、江戸はそれをまねることが多かったのですが、後期になると江戸も独自の髪型を創作し、江戸風の髪型文化を作り上げました。江戸時代後期は、京坂・江戸が相互に影響し合いながらも独自の髪型文化を発展させた時代といえます。

ちなみに江戸時代後期、江戸の髪型は、キレのある、いわゆるイキな髪型が多く、京坂は丸みのある、柔らかなイメージの髪型が多く見られます。江戸と京坂の文化の違いは、今日まで続いているのかもしれません。

丘圭・著