伊庭八郎さんの『征西日記』

徳川家 14代将軍・家茂が京都上洛した折に警護役として随行した剣士、伊庭八郎さんの『征西日記』が『幕末武士の京都グルメ日記』(山村竜也)と題して2017年7月、幻冬舎より出版されました。現代文に改められ、しかも著者が分かりやすく解説した新書判です。

日記というと心情や感想などが入り込むのが一般的ですが、『征西日記』は活動日報といった内容で、極めてシンプルです。来訪先、来訪者、同行者、そしてグルメ日記とあるように伊庭さんが食したものをメモ書きしています。

記述期間は、家茂が上洛した元治元年(1864)正月から同年6月までの将軍の征西期間(第一次長州征伐)です。伊庭八郎さん、心形刀(しんぎょうとう)流という剣術の流派の宗家9代目を継ぐべき21歳の青年剣士で、しかも色白の美男とのことです。

第一次長州征伐をふまえた『征西日記』という大仰な書題とは裏腹に、日記の内容は平々凡々とした半年間の活動報告です。当時、京都は攘夷派・佐幕派が入り乱れて騒乱していたとする歴史書が多いのですが、少なくともこの日記からは、騒乱状況はまったく伝わってきません。

半年間の日記のなかに、月代、結髷などの記述があるのはわずか3個所です。3回しか処置していなかったわけではありません。月代剃りや髷結は日常のことで、当たり前すぎて書く必要がなかったからです。山村竜也さんもそう解説しています。顔を洗った、歯を磨いた、のと同じ類です。
3月24日「‥‥髪月代を剃った。‥‥」、4月25日「‥‥昼過ぎに髪を結った。‥‥」、6月8日「‥‥髪月代を剃った。‥‥」。

4月25日は、数日前より伊庭さんは体調を崩していて、しばらく髪月代は当たっていなかったので、久々の髪月代を記したのでしょう。月代剃りは、2、3日に1回、人によっては毎日当たります。

滞在地の京都は幕府が管轄しているので、宿舎の近くにある床屋に出向いて髪月代をしてもらっていたのだと思われますが、時には同僚にしてもらっていた可能性もあります。伊庭さんは勤めがないときは頻繁に剣術の稽古場に出かけています。剣術の稽古は激しいので、髷は乱れます。稽古が終わったあと、稽古の仲間同士お互いに髷を結い直すことは常のことです。その折、月代を剃ってもらっていたかもしれません。

4月25日は、宿舎まで髪結床に来てもらって結ってもらった可能性もあります。いわゆる回り床屋です。いづれにしても記述が簡便すぎて、この日記からは詳細は不明です。

この伊庭さん、後に維新の騒乱に巻き込まれ、明治2年(1869)、函館・五稜郭での戦闘で負傷し、それがもとで亡くなっています。26歳。死後6日後、旧幕府軍は降伏し、戦闘は終結しています。幕府恩顧の青年でした。

丘圭・著