髪を解かれた、女の関所越え

江戸時代中期以降になると、伊勢へのお蔭参りに代表される神社仏閣への参詣や、温泉地への湯治など、多くの人が旅を楽しむようになりましたが、女性の場合は何かと不自由でした。

幕府は主要街道に関所を設け、旅人は事前に往来手形や関所手形を入手して、関所を通過しました。男性の場合は、わりと簡単に手形を得ることができ、よほどのことがなければ通過できましたが、女性の場合は手形の申請からして面倒で、関所での調べも慎重に行われました。江戸からの出女を警戒したためで、京坂へ上がる関所ではとくに慎重な調べを行っていました。

いまなら顔写真で本人を認証しますが、江戸の昔には写真などありません。氏素性は手形に記載されていますが、女性の場合、関所手形に女、禅尼、尼、比丘尼、髪切、小女に分けて記載されています。この他、ほくろや傷など身体的な特徴がある場合は、それも記されています。
女性の旅人を調べるのは人見女といい、関所の下役の女房か母親が勤めます。

この人見女が調べたことを書記に伝え、書記は上役の役人に「尼でござーい」などと報告して手形と合っていれば通しました。この人見女、髪を解いて調べることもあり、切髪か否かを調べたり、頭部の釣り禿(髻禿?)を調べたようです。

髪を解かれるとまた結わなければなりません。自前で結うのが当時の女性のたしなみとはいえ大変です。そこで、人見女に袖の下の渡して簡便に済ましてもらうことが行われていました。人見女は、袖の下を渡さない女には、嫌がらせ的な調べをしたようです。袖の下の相場も関所ごとに、また旅人の身分によって、おおよそ決まってといいます。

女性の判別に重要な役割を果たしたのが髪、といえます。前述の区分は、大人の女、小女、宗教者・後家の区分といえます。もちろん髪以外にも、お歯黒の有無、眉の有無なども調べられました。

袖の下の余録はかなりあったようで、関所勤めの足軽など軽輩は代々、この職から離れなかったといいます。
そんな袖の下をあてにするセコさがあった反面、例えば小女は振袖を着ていれば問題ないのですが、裕福でない家の子は振袖でないことが多く、そんなときは役人の手持ちの手ぬぐいを振袖に見たてて通すなど、人情味のあることもしています。

関所というと徳川幕府を支えた重要な出先の役所のイメージがあります。しかし実際は袖の下が横行したり、手形にしても近くの旅籠の主人が書いたりと、かなりルーズに運用されたたのが実態です。
関所が廃止さたのは明治2年(1869)になります。

丘圭・著

参考文献:『江戸庶民の旅』(金森敦子、平凡社新書)