講武所風(佐幕)と尊王風の髪型

幕末に「講武所風」といわれる髷・月代がはやりました。月代の幅を細めにとり、髷を直線にした男髷です。

講武所風(佐幕)と尊王風の髪型

講武所は、幕府が軍制改革の一環として安政2年(1855)に創設した練兵機関(翌年、築地鉄砲洲と深川越中島に開設)で、ここに参加した旗本、御家人らが好んでした髷を「講武所風」といいます。

紹介したイラストは月代を狭く、ほぼ平行にとっていますが、当時の絵画史料をみると、前髪の先端部分を残した中剃り風のものもみられます。要するに月代を細く、髷を直線にした髪型が「講武所風」です。

この髪型、「講武所風」と名付けられている通り、幕府が講武所を設置した以降に流行した髪型です。江馬務さんは『日本結髪全史』で文久(1861~1863)の末ごろから流行した、と書いています。流行したのは、文久以降のようですが、江戸後期、若い幕臣で江戸市中にある剣術の稽古場に通う武士の多くはすでにこの髪型をしていた、と思われます。ですが、尊皇攘夷派の武士の中にも月代を細くして髷を結った姿の絵画史料(武市半平太と伝わる絵画など)が残されています。

これに対し「尊王風」とよばれる髪型があります。この髪型は、総髪・茶筅です。茶筅といっても、戦国時代後期にみられるような茶筅髷の毛先を短く切ったものではなく、毛束にして短く垂らしています(図・参照)。

尊王攘夷派の志士の多くがした髪型なので、「尊王風」の名がついていますが、志士に限らず、学者や浪人などもしていました。また志士のなかには、月代を伸ばした浪人銀杏に結う人も多くいて、「尊王風」イコール志士とは限らないのは「講武所風」と同じです。
総髪や月代を伸ばしたままにしたのは、日々忙しく活動していたため、髪にかける時間的な余裕がなかったから、といわれています。

幕末の動乱期、髪型にも「尊王」対「佐幕」があった、というお話です。

丘圭・著

<掲載した写真>講武所風は『黒髪の文化史』、尊王風は『日本結髪全史』より(いづれもインターネットより採取)