カツラを被ったカピタン

江戸時代、日本は鎖国していた、と教科書にあります。しかし、朝鮮、中国、オランダなどと細々とながらも交流していました。朝鮮通信使や琉球使節はよく知られていますが、平戸のオランダ商館とも盛んに交流していました。

江戸時代を通して、朝鮮通信使は計12回、琉球使節は計18回来朝しています。それに対し、オランダ商館長のカピタンは計166回も江戸へ参府しています。

オランダと日本との交流は、慶長5年(1600)にリーフデ号が豊後国に漂着してから始まります。その後、寛永1年(1624)に日本の朱印船の船長・浜田弥兵衛と、オランダ台湾商館長・ヌツイとの間で紛争が起き一時中断するものの、寛永9年(1632)にはオランダ側が全面的に折れる形で関係が修復し、交流が再開し、翌年に江戸参府が行われ、以降定着します。当初は毎年行われていましたが、寛政2年(1790)以降は4年に1回に改められています。

オランダ商館長・カピタンの江戸参府は、朝鮮通信使や琉球使節ほど大人数なものではありません。カピタンと医師、書記の3人ほど、それに長崎奉行の役人、通訳、使用人らの日本人で構成された小規模なものです。

オランダ商館のある長崎の出島から1月以上かけて江戸に行き、厳重に警護された阿蘭陀宿で数日待機し、将軍の謁見を受けます。カピタンが平伏するなか、老中が「オランダの者が将軍を表敬する」と一声かけて終了です。

カピタンに随行した医師に、ケンペル(来日期間1690~92)、シュンベリー(同1775~76)、シーボルト(同1823~29、59~62)らがいます。彼らは日本の蘭学者らと交流し、欧州の科学を伝えるとともに、当時の日本を世界に紹介し、後世に名を残しました。

オランダのカピタンが参府した当時は、幕府がキリスト教の禁教政策をとっていたため、オランダ人との接触はごく少数の人に限られていました。江戸では日本人との接触も外出も厳しく制限されていましたが、同じ幕府直轄地の京都は少し状況が違っていたようで、いろいろな交友を深めていたようです。

文化11年(1814)に江戸参府したときのカピタンはヘンドリック・ヅーフでした。彼自身3度めの参府になります。帰途、京都に滞在した一行は、定宿・海老屋で様々な歓待を受けます。その一つが遊女の差し入れです。小糸と小銭という舞妓を気に入ったカピタン・ヅーフは、定宿を抜け出し、舞妓らと示し合わせて別の宿で一夜を楽しみます。その折、ヅーフは往路に「鬘屋源八」で用意していた男かづらを装着して抜け出します。紅毛人のままでは目立ち過ぎます。

「鬘屋源八」がどういう鬘屋だったか詳細は不明です。京都なので歌舞伎関係の鬘を作っていたのかもしれません。
なぜ、この話がいまに伝わっているかというと、後にシーボルト事件が発覚し、京都定宿の海老屋の主人・村上等一を聴取して判明した話です(村上等一が書付を残し、それが後世に伝わりました)。

丘圭・著

参考文献:『江戸のオランダ人』(片桐一男、中公新書)