パーマネント 事始め

パーマネントは1905年(明治38年)、ドイツ人のチャーチル・ネッスルさんが発案しました。ホウ砂と加熱器具を用いてウエーブをつくるもので、ネッスルウェーブといわれます。このネッスルウェーブ、施術時間が長時間だったため普及しませんでした。

その後1920年(大正9年)ごろ、電気パーマネントが米国で実用化され、米国では20年代に普及しました。亜硫酸水素ナトリウムとアルカリ製剤の用剤を電熱で加熱し、毛髪の結合組織(S-S結合)を変成させてウエーブを得るもので、ネッスルウエーブを改良した機械です。

パーマネントが日本に渡来したのは、大正12年(1923)です。
横浜港に着岸する予定の貨物船が、関東大震災(大正9年)の影響で、神戸港に迂回しました。この船に日本でパーマネントの技術と機械を普及させようと機械一式を持ち込んでいた、アメリカ人バイヤーのエンプレスさんという人が乗船していました。神戸港で下船したエンブレスさんが販売先を探していたところ紹介されたのが、当時、一流といわれたオリエンタル・ホテルの理髪店です。紺谷安太郎さんという理髪師が経営していました。

安太郎さんは西洋理髪師、妻の寿美子さんは髪結師、という夫婦でした。寿美子さんはそのときすでにパーマネントウエーブが米国で流行していることを知っていて、エンブレスさんが持ち込んだ機械一式を購入し、取り扱い方法を学びました。

寿美子さんはもともとは結髪師です。美容師としての技術を学び、パーマネントウエーブの技術を極めるために、昭和2年(1927)フランスに渡り勉強します。50歳ごろのことといいます。そして、帰国後、三宮に紺谷美粧倶楽部(「紺谷美粧院」)を開き、パーマネントの営業を本格的にはじめます。

昭和4年当時、パーマネントの機械がある美容店は全国で6店(『髪の社会史』)を数えるのみでした。米国の機械は家が買えるくらいの高額で、当然パーマネント料金も超高料金でした。紺谷美粧倶楽部の客筋も在留外国人婦人や富裕層のごく一部の女性でした。

日本でパーマネントが流行りはじめるのは昭和10年頃ごろからになります。外国製より安い国産のパーマネント機が生産されるようになってからのことです。

ところで、パーマネントの日本渡来については、上記の神戸説の他に横浜説があります。横浜には芝山兼太郎さんの「日の出軒」があり、すでに婦人部を併設していましたので、その可能性はあるのですが、米国での機械の開発や普及の時期と、関東大震災後の復興過程を考えると、神戸説が有力です。

紺谷美粧倶楽部、いま東京・高輪の高級美容室「エステインターナショナル」(村橋哲也社長)に受け継がれています。

丘圭・著