山野千枝子さんの「日本マネキンクラブ」

山野千枝子さん(明治28年/1895~昭和45年/1970)といえば、米国で美容の技術を学び帰国後、大正12年に丸ビル4階に「丸の内美容院」を開業、マルセル・ウエーブで一名を馳せた美容師として美容業界で知られています。

「日本マネキンクラブ」設立当初の写真

その後国産パーマネント機が開発されると、パーマネントの普及に尽力し、多くの後進を指導育成しました。NHKの朝の連ドラでモデルとなった吉行あぐりさんはじめ、戦後の美容界を彩る著名な美容師を排出しています。

山野さんの美容業界に関する功績については多くの記述が残されていますが、意外と知られていないのが、日本初のモデルクラブを創立したことです。記述があっても「昭和4年(1929)、日本マネキングラブを創立」(*)といった程度です。
モデルクラブの創立については、美容史よりも芸能史に詳しく紹介されています。

昭和3年(1928)、丸菱呉服店が衣服の広告のために、女性モデルを募集し、採用された7人が同呉服店の1階ホールに立った、これが日本最初のモデルによるショーといわれています。いまならウオーキングをするのでしょうが、立っていただけで、見た人は目が動く、などと仰天したエピーソードが残されています。

当時はモデルとはいわずマネキンといい、募集に際に使われたマネキンという言葉が理解されずに、マネーと関連付けてそろばんをもって応募した女性がいたりと、エピソードには事欠きません。

丸菱呉服店のモデルの仕事は20日間で終わりました。しかし、モデルになった7人はこの経験を生かして仕事として続ける意向が強くあったのですが、資金が乏しく諦めかけたところに、手を差し伸べたのが山野千枝子さんでした。

「日本マネキングラブを創立」というと山野さんが主体的に活動して創立したように思われますが、実際は違います。
丸ビルは商店街を持った日本最初のオフィスビルといわれ、その1階に入居していた丸菱呉服店と店子つながりでの「日本マネキングラブ創立」だったようです。

日本初となった7人のモデルさんの氏名や素性は芸能史に残されています。興味深いのは7人のうち2人が美容師がらみだったことです。27歳で最年長の元美容師と、23歳で美容師志望の未亡人です。
このほか女優や駆け落ち女性、ダンサーなど多彩な女性たちで、山野さんは自身の著『光を求めて』で、「7色のいろとりどり、、」と7人の個性を形容しています。

「日本マネキンクラブ」が昭和4年の年初に創立されると、多くの企業から引き合いがあり、繁盛するのですが、金銭問題からモデルさんたちは独立、同年8月に新たに自主運営の「東京マネキンクラブ」として再出発します。

金銭問題というのは、ギャランティの配分問題です。モデルの仕事は、当時の女性の職業としては破格の1日10円のギャランティでした。ほぼ全額を求めるモデルさんと半分近くを徴収する山野さんとその配分について話し合いを持つのですが、結局折り合いがつかずに独立に至ったとされています。社会主義的な思想を持つ女性がリーダー格だったのが災いしたともいいます。

山野さんの「日本マネキンクラブ」は1年にも満たない存在でしたが、この短い期間に山野さんはファッションショーや着物ショー、資生堂の歯磨き「ニューミキス」の宣伝などでさまざまな演出を凝らし、その才能は高く評価されています。
美容史だけでなく日本芸能史にも足跡を残した山野千枝子さんでした。

*写真は、「日本マネキンクラブ」設立当初写したとされる写真。中央のコート姿の女性が山野千枝子さん。

丘圭・著

(*)追記/2018年5月19日
「日本マネキングラブ」の創立を昭和4年と書きましたが、美容業界関係の書籍に昭和3年とする記述があります。そのへんのところは、芸能史関係の書籍に、具体的な記述があります。

丸菱呉服店がモデルを募集したのは、昭和3年10月28日発行の新聞広告です。「日給3円以上5円」と当時の女性の仕事としては破格です。「150人ほどの希望者が集まった」と『婦人公論』(「東京マネキンクラブ奮闘史」)は記しています。
このあとモデルの選考、選ばれた7人による延べ20日間にわたるモデルの仕事をしました。詳しい日にちは不明ですが、おそらく11月いっぱいはモデルの仕事をしていたものと思われます。

そして、解散、日本マネキンクラブの創立になります。12月中の設立も考えられなくはないのですが、年明けとする芸能史のほうが妥当なようです。おそらく法人登記などはしていなくて、山野千枝子さんの美容研究所を連絡事務所として利用した程度のものでしょう。

また、一部の美容業界関係の書籍に「東京マネキンクラブ」を設立したとありますが、これは山野さんの手を離れたあとモデルさんたちが立ち上げたモデルクラブの名称です。

余談ですが、本文で、マネキンクラブの設立を丸菱呉服店との店子つながりと書きましたが、山野千枝子さんはじめ「丸の内美容院」がヘアメイクを担当していたからかもしれません。

参考文献・『婦人公論』(「東京マネキンクラブ奮闘史」)、三菱グループ広報誌『マンスリーみつびし』など