鹿鳴館の洋風化は失敗

明治16年、現・帝国ホテルに隣接する場所に鹿鳴館が建設されたました。当時の不平等条約を是正する交渉を有利にするために、ときの外務卿・井上馨がとった洋風化策で、洋装した貴婦人たちが外国人高官らとワルツなどの西洋風のダンスを踊った、といいます。

ビゴーが鹿鳴館をテーマに描いた風刺画

鹿鳴館に集う貴婦人の髪型と衣装は、井上外交のシンボルといえます。ところが、ダンスパーティに参加した、外国人からは不評でした。
西洋ではダンスパーティに参加する女性は良家の若い女性たちです。しかし、鹿鳴館に集った女性は若い貴婦人もいましたが、高貴には違いないもののいささか高齢だったり、また若くても高貴とはいえない女性らが急遽、動員されたようです。

三島由紀夫の『鹿鳴館』(昭和31年、文学座)は華やかな舞踏会シーンが有名で、井上外務卿夫妻と思われる影山伯爵夫妻に「隠すのだ、たぶらかすのだ、外国人たちを、世界中を」というセリフを言わせるのですが、実際はそのへんところは外国人外交官らはお見通しだったようです。

紹介したイラストは明治15年に来日したフランス人画家ビゴーが鹿鳴館をテーマに描いた風刺画です。まさに猿まねをしている日本人(上、『トバエ』明治20年刊))です。下の風刺画(同)はダンスの休憩中に別室でくつろぐ日本人女性を描いた絵ですが、品がありません。近くの遊女、藝妓らが動員されたといいます。

結局、鹿鳴館の洋風化策で外国人をたぶらかすことはできず、井上外務卿の思惑は失敗しました。逆に行き過ぎた洋風化の反動が起こり、日本髪、さらに明治18年には日本髪を改善した束髪運動がおこります。復活した日本髪の影響で、明治23年には元結の生産量が増えたという記録が残っています。

日本女性の髪型の洋風化は大正期のモボモガがその走りです。マルセルアイロン、パーマネントによるウエーブヘアが少し目立つようになるのが昭和初期です。昭和10年ごろから国産パーマネント機が広まり洋髪の女性が増えてきますが、本格的に普及するのは太平洋戦争前後が境になります。

丘圭・著