髪結の仕事もした『唐人お吉』

小説『唐人お吉』(昭和3年/1928、十一谷義三郎・著)のモデルとなった斎藤きちさん(天保12年/1841~明治3年/1890)は、米国の初代駐日公使のタウンゼント・ハリスさん(Townsend Harris、 1804年~1878年)の洋妾(ラシャメン)になったことで、その後不幸な人生を送った女性です。

19歳のお吉さん、といわれる写真

 

ハリスさんは安政3年(1856)、日本との通商条約締結のため伊豆下田に来航。幕府役人と折衝の末、下田玉泉寺に領事館を置き、安政4年(1857)に下田条約を調印します。

そのころハリスさんは体調を壊し、通訳兼書記官として連れてきたヘンリー・ヒュースケンさんを通じて、幕府の役人に看護婦を依頼したのですが、当時の日本では看護婦の概念がなく、芸者をしていたお吉さんを妾としてあてがったのです。お吉さんがハリスさんのもとにいたのは3ヶ月ほどでした。

お吉さんは下田を離れ、幼馴染みで許嫁だった大工・鶴松さんと横浜で所帯をもつのですが、1870年下田に戻り、髪結の仕事をしています。ラシャメンへの偏見もあり、髪結の仕事はうまくいかなかったようです。お吉さんは鶴松さんと別れ、三島で芸者になり、また下田に戻ってきます。
そして明治23年(1890)、川に身投げして49歳の人生を終えます。

お吉さん、7歳のときに養女に出され、琴や三味線を覚え、14歳のときに養母から離縁され芸者になります。またたく間に下田一の売れっ子芸者になったそうです。髪結の技は、養母から習ったものと思われます。自分の髪が結える芸者は、それだけでより好条件で迎えられたいいます。
後年、髪結の仕事をしたのは、それだけ髪結の技に自信があったからでしょう。

写真は、19歳のお吉さん(万延元年、1860)を写したとされる写真です(下田市の八幡山宝福寺蔵)。下田で一番の売れっ子芸者だったというのが納得できる美貌です。
実はこの写真、お吉さんではない可能性が高いとされています。写真技術の問題、写真家(下岡蓮杖、水野半兵衛、アドルフォ・ファルサーリら)とお吉の年代が一致しないなどの理由のほかに、髪型も理由の一つになっています。

幕末のころ流行っていた髪型は、銀杏返し、島田髷などですが、写真の髪型は日本髪ではない、という理由からです。確かにセンターパートで、洋風にちかいヘアスタイルのように見えます。
この写真、維新後横浜で活躍していたイタリア人写真家・アドルフォ・ファルサーリさんが明治10年代後半に撮影した「Officer’s Daughter(士官の娘)」のモデルに類似しています。

日本髪は、江戸から明治にかけて大半の女性がしていました。テレビや映画などの時代劇で女優さんがしている日本髪は、鬢サシやかもじを入れ込んだ大振りなものです。これは、プロの髪結でなければできない髪型です。普段の「ケ」のときに、自ら結った髪は小振りなもので、写真のように小さくて、しかもセンターパートに割れがあってもおかしくありません。

写真の技術などはともかく、髪型で撮影対象を判断するのは難しい。

丘圭・著