髪型の歴史を俯瞰する

マルセルアイロンが日本女性の髪型に少なからぬ影響を与えたことを紹介しました(*)が、髪型風俗に限らず風俗、風習というのはゆっくりと緩慢に変化していくのは洋の東西を問いません。

ゆっくりと変化していく髪型風俗ですが、時として大きく変わる画期となる出来事があります。それは戦争です。職業戦士による局地的な戦争ではなく、領民・国民あげての総力戦です。

応仁の乱から戦国時代へとかけて戦乱が続きました。それまでの武士だけによる戦さから農民まで領民あげての戦乱になり、これを画期にそれまでの烏帽子着用の男子風俗が露頂へと変革しました。烏帽子は平安時代から約800年続く日本男子の風俗でした。

烏帽子や冠の下には髻を結うのが習わしです。髻は烏帽子や冠を固定する役目もありました。露頂になったことで、髻は露出します。戦国時代末期から月代に剃刀が用いられるようになり、このころから江戸時代初期にかけて月代の風習が急速に広まり、髻を折り曲げて丁髷にして月代に乗せる、日本独特の丁髷文化が誕生します。

月代を剃るようになって、一銭剃りと呼ばれる月代剃りの仕事が誕生します。髪結床の祖です。江戸では17世紀前半に赤羽で営業したのが最初ですが、上方ではそれより前に出現していた可能性があります。

丁髷は、明治4年の断髪令で終焉します。日本史の教科書では、洋風化の象徴として男性の髪型がとりあげられていますが、実際には十数年かけて徐々にザンギリ頭、西洋髪型へと変わっていきます。慣れ親しんだ風俗は一朝一夕には変えられないものです。

断髪令でザンギリ・断髪が普及するとともに髪結床の仕事は終息し、西洋理髪の仕事にとってかわられます。髪結床の中には新しい西洋理髪の仕事を習得し継続する人もいましたが、廃業する人もいました。もちろん新たに参入して理髪業を営む人もいました。

一方、女子は奈良時代の一時期、貴族階級で結う風習がありましたが、日本女子の基本は垂髪です。平安時代から江戸時代初期まで垂髪が女子の変わらぬ髪型風俗でした。その垂髪が男子の丁髷の影響を受けて、戦国時代末期から徐々にゆっくりと変化していきます。
これには、戦国時代末期、男装して歌舞をして人気者になった阿国の影響が少なからずありそうです。

垂髪のときは肩下で結んでいたのが、根結の垂髪にみられるように男子の髻の位置、後頭上部で結ぶようになり、そこから長い髪を丁髷のように折る島田髷、大きくふくらませる勝山髷が生まれます。根結をすることで後頭部にタボ(ツト)が生まれ、この部分も髷との関係で変化していきます。
男子の丁髷から変化した髪型とは別に、髻をとらない唐輪(兵庫髷)、また実用的で簡易な笄髷なども誕生します。

江戸中期になると鬢に独特の形をもたせた髪型が誕生し、このころ日本髪が完成したいえます。江戸中期になって多様な日本髪が登場すると、専門の髪結職でなければ手に負えなくなり、女髪結が活躍します。女髪結が現れると、さらに専門職の手によって複雑な髪型が生まれるのです。

女髪結は、歌舞伎の女形の髪型からその技を学んで、おもに遊女を相手に仕事をします。18世紀はじめに上方におこり、江戸には10数年遅れて誕生します。遊女がする髪型が地女にも影響し華美な日本髪が広まります。

男相手の髪結床が幕府直轄地では町の自治組織に組み入れられ公役を担ったのに対し、女髪結は女性が自立できる数少ない仕事であったのにかかわらず、お上から認められる仕事ではありませんでした。寛政の改革、天保の改革では取締の対象とされるのですが、改革が終わるとすぐに復活します。それだけ必要とされた仕事だったといえます。

日本髪は江戸後期から明治、大正、昭和まで続く日本女性の髪型として定着します。
明治維新で日本の社会制度、文化は大きく変化しますが、日本髪は維新とは関係なく、明治以降も続きます。
江戸時代には非公認の女髪結でしたが、維新後は看護婦、女教員などとともに数少ない女性の職業になります。ただ理髪業もそうなのですが江戸時代から続く仕事だけに、江戸時代の徒弟制度的な教育が色濃く残っており、その後の理美容教育に影響を与えます。

日本髪から断髪へと変わるのは第二次世界大戦が画期になります。
それまでにも明治後期から耳隠しなどのウエーブヘアやマルセルアイロンの普及、パーマネントの流行などがありますが、それをしたのは都市部に住む一部の女性たちだけです。

大正時代にモガというショートなウエーブヘアが一部の女性に流行します。欧州で流行ったスタイルが日本に入ったものです。
欧州では第一次世界大戦で、戦場にいった男性の穴を埋めるために工場など生産現場に女性が動員され、それまでのロングヘアから手間がかからずに、しかも仕事がしやすいショートヘアが流行ったといいます。(一説には、当時、頭ジラミの大流行があって、それに対応するために短くしたという説もあります。)

日本の場合も同様です。戦争が激化すると多くの男子が戦地に赴き、残った女性が工場などの現場に動員されます。これが契機となって、それまで主流だった着物から洋服へ、日本髪から断髪へと一気に変わります。
当時の女子挺身隊の写真を見ると、ほとんどが洋装に断髪です。昭和10年代前半は着物姿の女性が多くみられましたが、終戦近くは多くの女性が断髪しています。

国民を総動員する戦争は職業にも変化を及ぼします。
理容業は髪結床の時代から男子の仕事でしたが、戦時中に男子の就業が禁止されたことで、各地に理容速習科の養成施設が設けられ、女性理容師が理容業に進出しました。戦前にも僅かながら「女床」といわれる女性理容師がいましたが、戦後女性理容師が増えたのは、戦争が契機です。

戦後も一部の女性は廂髪の束髪をしていました。ですがごく少数で、大戦を機に日本髪は一般女性の風俗から消えます。日本髪に代わって登場したのが断髪、パーマネントです。
マルセルアイロン、それに続くパーマネントは戦前から一部の女性の間で行われていましたが、戦後コールドパーマネントが普及したことで一気にウエーブヘアの時代になります。美容室はパーマ屋さんと呼ばれるようになります。

明治時代末から大正時代にかけて、西洋風の断髪にウエーブを施す「美容院」「美装院」また「理容院」などの名称の女性客相手の店が登場します。女髪結から転身した人もいましたが、欧米で技術を学んで新たに参入した人、また男性理容師の転身もあります。これら先進の技術者は昭和期に入って、新しい技術を指導、普及するのに貢献します。
さらに、この時期に美容術講習所などの名称で、学校が開校されるようになり、髪結の昔から続く徒弟制度に一石を投じることになります。

戦後は、男女による髪型の違いが徐々になくなっていきます。昭和30年代後半から40年代にオードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」でしたショートヘアなどの影響を受け、日本でもショートにする女性が現れる一方、男性もグループサウンズなどの影響を受けて長髪にする人が増え、髪の長さによる男女の差がなくなります。

30年代末にヴィダル・サスーン(英国)が発表したジオメトリックカットに代表されるブラントカットが世界的に広まり、それまでのレーザーカット中心からカット&ブローに移行したことも理容と美容の違いをなくすことに一役買っています。

アイロンやロッドを使ったパーマネントによるウエーブヘアをする男性が増えて、ウエーブの有無による違いもなくなります。
髪型の多様化は徐々に進み、戦後から四半世紀が経った1970年代以降は、髪型における男女の大きな違いはなくなります。

戦後、昭和22年に理容師法が公布され、この法律の中に美容師も含まれる形になっていましたが、それから10年後の昭和32年に美容師法として独立します。理容業と美容業は江戸時代からの職業としての出自も違います。当時はまだ男性客は理容、女性客は美容の性差による違いがあり、そんな背景があって日本では理容師法と美容師法が施行されたのです。

ところが前述のように、髪型における男女の違いがなくなるとともに、理容業美容業の違いも実質的になくなります。
理容業と美容業の間でいわゆる「パーマ戦争」といわれる業権争いが起こり、昭和53年(1978)に双方痛み分けで決着しますが、この紛争は理容業美容業の2つの業法がすでに現実に即していないために起こったといえます。

平成27年(2015)に「パーマ戦争」での理美容間の取り決めを廃棄することになり、法的にも実態に即した扱いになりました。しかし法律としては、理容師法、美容師法は現存しています。
理容業美容業の仕事はほぼ同じなのに二つの法律があるという、世界でも珍しい法体系になっているのが、いまの日本の理美容業です。

丘圭・著

(*)『髪型風俗を変えたマルセルアイロン』

髪型風俗を変えたマルセルアイロン

1)2018年6月25日加筆