「女は、髪のめでたからんこそ」

髪は身近な存在だけに古典文学にも多く登場します。14世紀、鎌倉時代末ごろの『徒然草』(兼好法師)第9段に「女は、髪のめでたからんこそ」から始まる一文があります。

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女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかンめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。

ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる寝もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり。

まことに、愛著の道、その根深く、源遠し。六塵の楽欲多しといへども、みな厭離しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。

されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり。
‥‥(以上、第9段全文です)

髪に関わる部分に絞りダイナミックに意訳すると
女性は髪が美しい人ほど美人に見える。
「六塵」とは、仏教の六根=「眼耳鼻舌身意」を感覚器官とする「色声香味触法」のことで、これを遠ざけることはできるが、「かの惑い」、つまり男女の色の道は、老人も若い人も、賢い人も愚かな人も止められない。
そして「かの迷い」の結果、象をもつなぐほど強力な女性の髪の毛で結った綱で絡め取られてしまう。

少しダイナミックすぎますが、こんな意味合いです。

あの手この手で男性をたぶらかす女性を表現したことで、フェミニズム主義の人は女性蔑視とこの一文を批判しますが、女性の外面ばかりで判断してしまう軽薄でアホな男性諸君に警鐘をならした一文と思えます。

女性蔑視か否かの論争は別にして、この段で、髪が女性の美貌に重要であること、また女性の長い髪の毛で結った綱が寺院建築の際などに利用されていて、その強度は広く認識されていたのがわかります。

ちなみに前回紹介した『都風俗化粧伝』「髪之部」の頭書は、
「女は、髪のめでたからんこそ、このましけれと兼好法師が徒然草にも書きたれ」と書き始めています。

丘圭・著