モテ男、名古屋山三郎

日本髪の祖ともいえる阿国ですが、その詳細は不明です。戦国時代から江戸時代初期に活躍した名古屋山三郎と夫婦だったという俗説があることを紹介しましたが、やはりこの夫婦説は俗説に過ぎませんでした。(「名古屋山三郎と阿国」(http://www.kamiyui.net/?p=424))


日本史家の磯田道史さんが『読売新聞』に連載している「古今あちこち」で、「比類なき戦国美少年」のタイトルで、名古屋山三郎を紹介しています(2018年8月8日朝刊)。出典は、磯田さんが神田の古本屋で手に入れた『武辺雑談』という逸話集です。

読売新聞の記事を要約すると、
山三郎の父は、秀吉の馬廻(親衛隊)で、山三郎13歳のとき、東山の禅寺、建仁寺の西来院へ喝食(稚児)に出されます。京都に近い河原で軍揃えをしていた蒲生氏郷にたまたま見そめられ、氏郷の小姓になり、東北地方で起きた大崎・葛西一揆の鎮圧で手柄をあげ、氏郷の寵愛を得ますが、氏郷が病死すると京都に戻って千石取りの「富貴栄耀」の浪人暮らしをはじめます。

幼少の頃から容色麗しい山三郎、そのうえ「富貴栄耀」にあかして衣装、刀・脇差、鞍に贅を尽くし、着飾ったお供を連れて歩くので、京の都でも耳目を集めました。山三郎が行く先々で、町家の衆が見物に集まるほど、その容色は際立っていました。

山三郎は、葛城という傾城(美しい遊女)を連れて、目立つところで花見をしたと『武辺雑談』に書いてあるそうです。

山三郎には、阿国との夫婦説のほかに、秀吉の側室・淀君との不倫説・秀頼の父親説などの俗説もありますが、『武辺雑談』によると、淀君ではなく、秀吉が寵愛した京極松の丸様(京極竜子*)という側室が山三郎に近寄ったとされています。
いづれにしても、山三郎、当代きってのモテ男だったのは間違いありません。その結果、後世にいろいろな逸話が創作され、伝わったようです。

『武辺雑談』には、豊臣秀頼の子・国松が処刑されるまでの経緯なども書かれていて、作家の石川淳さんが『武辺雑談』の記事を踏まえ、「鸚鵡石」(『新潮』1966年1月;『天馬賦』に収録)という小説を発表しています。

『武辺雑談』は現在、国立公文書館の内閣文庫、宮内庁書陵部などに数部しか残っていないそうです。江戸時代には聞き書きによる書籍が多く出板されてますが、噂話にちかいものもあり、その信頼性はいろいろです。はたして『武辺雑談』は?

丘圭・著

*京極竜子:本能寺の変で、元夫は明智軍に加担した疑いで、秀吉丹波長秀の軍に殺害される。その後、秀吉は美貌の竜子を側室に迎えた、といわれる。

参考・「出雲の阿国」(http://www.kamiyui.net/?p=420