女髪結が増え、下がる結賃

前回、寺門静軒さんの『江戸繁昌記』から「女剃師」(おんなかみゆい)のことを紹介しましたが、『江戸繁昌記』は、時勢の変化を象徴するものの一つとして、「女剃師」を取り上げています。

「予尚(な)お 幼なり。賤(やす)きも五十銭をくだらず」だったのが、いまは「大抵三十二銭、賤(やす)きは十六文なり」と髪結賃の変わりようを書いています。
寺門静軒さん、寛政8年(1796)生まれです。幼いころというのは、文化(1804-1817)前半のころになります。そのころは安くても五十銭以下では結わなかったのが、いま(天保2年、1831)は安いと16文(銭)で結っている、とその変わりように驚いています。

江戸に女髪結が誕生したのは、18世紀後半、明和から安永のころです。上方歌舞伎の女形・山下金作付きの髪結師が甚吉さんにその技を教え、甚吉さんが指導して女髪結が広まった、とされています。山下金作付きの髪結師は200文で深川遊女の髷を結い、甚吉さんは100文で結ったことから、別名「お百さん」といわれました。甚吉さんの指導を受けた女髪結の結賃は50文ほどでした。

女髪結は当初は遊女や、囲い者といわれるお妾さんを客にしていましたが、富裕層の女性へと広まり、『江戸繁昌記』を書いた天保のはじめは「陋巷窮(ろうかんきゅう)ろ(門構えに呂という漢字です)に達して‥」と狭くて窮屈な裏長屋に住む女性まで女髪結に結ってもらっている、と指摘しています。自らの髪は自ら結うのが当たり前だった市井の女性が、髪結に任せるようになったのも寺門静軒さんは嘆いています。

この背景には女髪結の急増があります。江戸の時代、女性の職業は女子相手の寺小屋の師匠、芸事の師匠などごく限られていましたが、髪結の仕事は女性にとって自立のチャンスだったようです。
また髪型が複雑になり、差し物やかもじ、小枕などの小道具を使うようになり、とても自前ではできなくなったこともあります。そして何よりより髪結さんの結う日本髪に魅力があったからだと思われます。

『江戸繁昌記』では、様変わりしたものとして「女剃師」とともに「山鯨」をあげています。肉食は禁忌されていた江戸時代ですが、後期になると「山鯨」と称して鹿、猪、牛などの肉が滋養強壮の薬として食されていました。当初は何軒もなかった「山鯨屋」が寺門静軒さんが『江戸繁昌記』を書いた当時はどこにでもあるように増えたそうです。

ただ女髪結と違うのは、女髪結は結賃が下がったのに対し、「山鯨屋」で売る肉料理はむかしより高くなったそうです。結髪も肉食も需要は拡大したのですが、供給の関係で片や値下がりし、片や高騰したのは経済の教科書通りの結果です。需要と供給の関係は21世紀のいまも不変です。

丘圭・著