江戸の床屋

江戸の町は、南北の町奉行が支配していましたが、実務は町民が自ら担っていました。その自治の一端を担っていたのが床屋です。

町奉行には与力、同心が配置されていす。その数は南北それぞれに与力25人、同心120人です。この人数は18世紀後半のもので、江戸後期になると与力25人、同心130人になるなど時代によって多少の多寡はありますが、大きくは変わりません。
この人数で、いまの警察、裁判、消防、経済、インフラ管理などを担当していました。都庁に警察、消防、裁判所をプラスしたようなイメージです。これだけの人数ではとても対応しきれません。

町奉行の仕事のなかでも町人地区の統治を担当したのが、町会所与力、町会所同心です。実際には町会所役人の意向を受けて町人のトップである町年寄が采配していました。町内の自治組織は、町年寄をトップに名主、地主・家主、家守(自身番)・五人組で運営されています。これは住人管理、自警が主な仕事です。
町年寄、町名主、町火消、木戸番の防火を担う組織もあります。

町年寄は、樽屋、奈良屋、喜多村の三家があります。樽屋、奈良屋は徳川家が三河時代からの武士で、家康が江戸入府に際して町年寄に任じました。喜多村はそれより遅れて、家康が加賀藩の前田家からスカウトして江戸に招いた町年寄です。家康は三家に拝領地を与え、三家は地代などの収入で町年寄の職務を行っていました。三家は世襲で明治維新まで続きます。

町年寄の下に名主がいます。名主には、草創(くさわけ)名主、古町名主、平名主、門前名主があり、草創名主と古町名主は町年寄りとともに、江戸城で将軍に年頭の拝謁が許され、町人とはいえ旗本並の扱いを受けていました。

名主は、江戸の町が拡大するのにあわせて増えていきます。正徳期(1711-1716)には名主組合ができ、亨保7年(1722)には17番組にまで増えています。さらに町数が増えるにつれ名主も増え、名主と町年寄の間に肝煎名主が配下の名主を采配するようになります。また名主株も生まれ、町年寄とは違って、入れ替わりがありました。

名主が采配するのが地主・家主です。江戸の町人といわれる層はここまでで、裏店、長屋の住人は町人扱いされません。町人扱いというのは、町を運営するために地子銀などを支払う義務があるかわりに、問題があったときに役所に訴え出る権利があるのが町人ですが、裏長屋に住む、落語にでてくる八っさんや熊さんには、義務もなければ権利もありません。町人に対し細民ともいいます。

ここまで長々と江戸の町内自治につい説明してきました(これでもほんの一部です)。ここからは町内自治における床屋の役割についてです。

江戸での床屋の役割は町内の自警です。
江戸で床屋稼業が誕生したのは17世紀はじめです。赤羽根での出床がはじまりとされています。一銭剃りといわれ、街道筋を往来する人の月代を剃ったのです。江戸城の改築、大名屋敷の建築、日比谷入江の埋め立て、堀割の作成などで、各地から多くの男たちが集まってきました。そんな時代に江戸で床屋は生まれました。京都、大阪の上方では戦国時代末、月代の普及とともに床屋稼業がおこっていたものと思われます。

江戸時代前期は戦国の気風が色濃く残り、いわゆるかぶき者が徒党を組んで暴れたり、また辻斬りも横行していました。改易による断絶で浪人も多く集まり、不穏な状況で、とかく物騒な気配が漂っていたのが江戸前期です。

よく大江戸八百八町といいます。寛永のころ(1620年代)にあったのは300町ほどです(『東たより』)。寛永の末から正保のころには、街道筋や辻で営業する出床だけでなく、町内に店を構える内床があったと思われます。

町年寄が町割をして、江戸の町をつくりました。町づくりのなかで、自警のための自身番屋、木戸番の近くに配置されたのが床屋とされています。明暦の大火(1657)で江戸の町を再建したときに、このような町割りをしたのではないかと思いますが、遅くとも亨保のころには、床屋は前述の配置になっていました。ちなみに町数は、延宝7年(1679)のころには808町になり、亨保のころは1672町、天保のころには1719町に増えています。

床屋の客は、通路に向かって座り、その後ろで床屋は月代剃りなどの仕事をしていました。これは町内に不審な人物が入ってくるのを見張る目的があったからです。床屋は、小僧、中床、床屋の3人立ちが基本です。客を合わせ6人の目で外を監視することになります。不審者を見張るには十分です。

亨保のころには、町の入口に床屋が配置されていたとする理由の一つに、床屋株があります。
8代将軍吉宗の亨保の改革では、倹約令、上げ米、足高の制などいろいろな改革が行われましたが、その主眼は幕府財政の建て直しでした。支出の抑制をはかる一方、米の増産を進めました。ところが、米の生産は増えたのですが、米価は下がり諸物価は上昇するという事態になりました。

それまでの米本位体制は江戸の中期には貨幣経済に取り込まれ、供給量が増えれば価格は下がるという状況になっていました。米の生産が増えたことで人口が増えるという効果はあったものの、幕府の財政事情は好転しませんでした。

そこで、経済支配に目を向けた幕府は、株仲間、組合を認可し、結成を促して、組合を通じて経済を支配することに着目したのです。戦国時代末期から為政者に富をもたらすものとして楽市楽座がすすめられ、江戸時代になってからも、新規参入を排除するような株仲間をつくる商人らに解散の触れを出していた幕府でしたが、亨保に至って方針変換をしたのです。

亨保9年(1724)、まず米、酒、薪、塩、木綿などを扱う商人が町年寄の奈良屋に集められ、問屋株仲間の結成を命じられたのを皮切りに、当時の各業の代表が呼ばれて、株仲間の結成が命じられました。
亨保12年、当時の江戸での床屋稼業の代表格だった北小路幸次郎が「一銭職由来書」を提出し、床屋稼業が由緒正しく、しかも徳川家康公を助けたことなども書き記し、その真贋はともかく株仲間として認められたのです。
床屋株仲間は、天保の改革で諸業とともに解散を命じられるまで続きます。

江戸の町の発展とともに一銭職の出床がおこり、寛永の末ごろには町なかに内床があったと思われます。
財力のある床屋は、家主となって内床を開きましたが、多くは名主あるいは地主・家主が設えた店に雇われる形で仕事をしていました。町人の床屋もいましたが、多くは細民だったと思われます。

亨保になって床屋株が認めれると、株が価値を持ちます。1町に1株の営業独占権の有価証券として、200両から300両で売り買いされました。好成績を上げている場所の株は1000両で取引されたという記録もあります。1000両、いまの価値でざっくりと1億円です。

内床の株以外にも出床、廻り床屋の株も売り買いされました。
床屋株が認められた際、誰が所有したかというと、その場所の営業権なので、土地の所有者、あるいは床屋家屋の所有者になります。家屋所有の床屋は降って湧いた儲けです。
出床は、主に広小路や人通りの多い辻の仮店舗なので、おそらく名主、地主が株を持った可能性が高そうです。廻り床屋株は、大店などの得意先で床屋をする営業権なので、床屋本人の所有になりそうです。

吉原で豪遊した床屋の記録がありますが、床屋株を売り払って得た金で豪遊したかもしれません。
床屋株を所有していたのは、地主や名主が多そうですが、所有する株の価値はそこで稼業する床屋の腕にかかっています。いい床屋は優遇されたのがうかがわれます。蓄財して家主として床屋を稼業とする町人に出世した床屋もいたはずです。

ところで町の自治に組み込まれた床屋の町役は自警にあります。その延長線で探索を任務とする廻り同心の下っ引きをしていた床屋は多かったといいます。このほか、床屋の立地場所によって、火事の際の奉行所からの書類の搬出などの町役もありました。

床屋は町の情報が集まる場所です。町の顔役的存在の床屋も多くいました。
5代将軍・家綱の生類憐れみの令で、捨て子があった場合、拾った町で面倒を見ることになって、捨て子の養育をした床屋がいます。
地主になるには、その町の全員の地主の承認が必要でしたが、床屋は人望があればなりやすかったはずです。
自警を担当する床屋ですが、当時はその任に隠れて悪事をする人もいて、店が閉まったあと、奥で賭場を開く床屋もいます。

腕のいい床屋もいればそうでない床屋もいる、善人で人望のある床屋もいれば、隠れて悪事をする床屋もいる、いろいろな床屋が存在していました。これはいつの時代も変わらぬことです。

そして天保の改革で床屋株が解散になると、多くの床屋が独立して床屋稼業を営む時代になり、明治維新を迎えることになります。

これまでの話は江戸での床屋事情です。京都、大坂は江戸とはまた違った床屋事情があります。外様藩の金沢、親藩の名古屋はまた違います。床屋事情だけでなく、町人統治のシステムも違います。
前述の一銭職由来書は、江戸以外にも各地で残っていて、18世紀には日本の各地で床屋が職業として確立されていたのがわかりますが、その事情はまちまちです。

丘圭・著

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