京都の微熱

京都は、千年の歴史をいまに伝える古都です。しかし、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。

いくたびも戦乱に巻き込まれ、破壊されています。人家が密集する都市だけに大火に見舞われています。地震や風水害の被害にもたびたび遭っています。そんな古都・京都ですが、災難に遭ってもしぶとく再生しています。

戦国末期の桃山時代、京都は豊臣秀吉によっていち早く復興しました。江戸時代前期までは、京都は発展途上にあった江戸を凌ぐ都でした。文化、経済、手工業など江戸を圧倒していました。

江戸時代、三都といわれた京都、大坂、江戸は幕府の直轄地です。
江戸の町が「の」の字を書くように徐々に拡張していったのに対し、江戸時代、すでに平安京は跡形もありませんが、京都は平安京のむかしからの正方形に近い保・坊・町の区割りがあり、親町に付随する形での枝町などで構成されていて、江戸とは違います。

また江戸は町奉行があり、町年寄りを頂点にした自治が行われていましたが、京都は古くは六波羅探題があり、江戸時代は京都所司代が置かれ、17世紀後期には京都町奉行、さらに幕末は京都守護職が支配します。

京都の町の行政は戦国時代は惣町・町組・個別の町という階層で自治が行われtましたが、後期には上京・下京・禁裏六町など地区別に五つの惣町のの下に個別の町があるという構造でした。

京都は、江戸の町とは違いますし、江戸時代を通しても自治の組織は変化していますが、変わらないのはそこに住む住人による自治の強さです。なにしろなんども戦火に見舞われているだけに自警的な結びつきは強く、戦乱の時代には戦力を保有していたほどです。

戦国時代末期に800年続いた冠、烏帽子の男子の風習が露頂へと変わり、月代をするようになります。江戸では17世紀はじめごろに一銭剃りというわれる出床が登場しますが、当時の都市事情を考えると、江戸よりも前に、京の都に床屋稼業が誕生していたと考えるのが妥当です。

江戸では亨保の改革で床屋株が公許されましたが、京都の床屋は江戸の株仲間とは違い、早くから同業組合的な組織を形成していたのではないかと思います。床屋株と同じように1町に1軒、かなり排他的な組織で鑑札制度など独占的に業務を行い、組織としては強い団結力があった。料金も組合が主体になって決めていた可能性もありそうです。
なぜ、そんな推測をするのかというと、明治になって床屋から西洋理髪へと仕事そのものは大きく変わるのですが、強固な組合は存続していたと思われるからです。

明治になると理髪業は各府県別に警察が所管します。京都では警察に代わって組合が営業許可にあたる鑑札を実質的に管理し、料金なども主体になって決めていたのではないか。そう思われるくらい多くの資料が組合に残されています。戦前までは京都の組合は他の地域を凌ぐ、強い団結力があったと思われます。

床屋稼業からも、「千年の都、京都の微熱」が感じられます。

丘圭・著