江戸の女性が求めた女髪結

女髪結に転職を促した寛政7年(1795)の口達(*)から45年経った天保11年(1840)に再び女髪結を禁じる触れが出されます。

文化、文政、天保になると髪型はますます華美になり、天保11年の触れは、寛政7年の触れが守られずに女髪結が仕事をしているとし、女髪結本人は手鎖30日と仕事道具の没収、髪を結わせた客は30日の押込み、さらに女髪結の親や夫は過料三貫文を課すという厳しいものでした。

触れと同時に、町の露地の入り口に「女髪結入るべからず」の札が出されました。
寛政のころは、遊女や一部の裕福な女性の髪を結っていた女髪結ですが、天保になると裏店に出向き、富裕ではない女性の髪も結っていたのがわかります。当時の日本髪は自前ではできないほど複雑な髪型になっていました。

触れが出されると、いっときは女髪結は営業を自粛しますが、すぐに再開します。
以降、女髪結に関する触れが22回も出されますが、いっこうに守られません。女性の美しい髪型に対する欲求は強く、女髪結はすでになくてはならない技能者になっていたからです。

しかし幕府も黙っていません。幕末の嘉永6年(1853)3月、「実際に女髪結を召し捕り、厳しく吟味し、仕置した」と町奉行(市中取締掛)が町名主に、触れを徹底するよう教諭しています(徳川禁令考・第57)。この徳川禁令考によると、当時江戸の町に総数1400人の女髪結がいた、とあります。実際には懇意にしている客だけの髪を結う、内ないに仕事をしている女髪結も多く、この数字より多くいたと思われます。

この取締りに恐れをなして、女髪結が仕事をやめたかというと、効果はやはり一時的で、すぐに復活します。
13年後明治維新を迎えます。明治になり、女髪結は名実ともに女性の職業になります。

女髪結への禁令 寛政7年の口達
http://www.kamiyui.net/?p=555

丘圭・著

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