客の髪を整える湯女

江戸前記の江戸の町を描いた「江戸名所図屏風」には、吉原(元吉原、以下同)にも負けないくらいの賑わいをみせる湯屋が描写されています。そこには根結の垂髪をした多くの湯女が登場します。

「江戸名所図屏風」左隻6曲より(部分)

客の垢を落とす湯女、頭に湯をかける湯女、客に茶を差し出す湯女らにまじって、客の頭を乾かす湯女や客の髪を梳かす湯女の姿もみえます。いまの理美容店でいうなら、シャンプー後のドライ、セットといったところでしょうか。

床屋・理容業は一銭剃りが起源とされて、江戸の町でも、この屏風絵が描かれたころには誕生していました。屏風絵には描かれていませんが、街道沿いに出床を出して月代剃りをしていました。髪結・美容業は、江戸中期になります。
この屏風絵を見る限り、湯女が理美容の仕事の祖ともいえそうです。

湯屋は、風呂屋であると同時に、吉原顔負けのサービスをする遊興の場でもありました。幕府の達しで湯女は3人までとされていましたが、絵を見る限り11人います。三助も一人います。幕府の触れは無視です。

湯女は昼間は、湯屋の仕事をし、日が沈むころには蒸し風呂の火は絶やされ、湯屋は遊興の場と変わります。背後に並んだ三味線と思われる道具が並んでいます。
湯女は美しい服に着替え、化粧をして、三味線や小唄で客をもてなしました。もちろんその後のサービスも。湯女を置いた湯屋は繁盛し、吉原を凌ぐほどだったといいます。吉原の遊女が湯女として働いた記録もあります。
そんな湯屋の繁盛ぶりを伝える絵画史料が「江戸名所図屏風」といえます。

勝山髷の祖といわれる勝山はもともとは「丹前風呂」の湯女でした。湯屋と理美容業、過去には少なからぬ関係があったようです。湯女は明暦の大火(1657)後、吉原の移転にともない廃止され、多くの湯女は幕府公許の新吉原へ移動したといいます。勝山もその一人です。

歴史に「たら、れば」はありませんが、もし湯女が続いていれば、後の床屋、髪結も違った業態になっていたかもしれません。

丘圭・著