天正12年には存在した髪結

髪結床の発祥は、江戸では江戸時代初期、赤羽根あたりの出床とされていますが、上方はそれよりも早い。江戸は、戦国時代から江戸初期にかけて京・大坂に比べると未開の地でした。文化や風俗は上方が先進地なので当然のことです。

髪結床は、烏帽子から露頂への変化、月代剃りの普及とあいまって誕生したのですが、天正12年の『多聞院日記』に「かみゆゐ」の記述がみられます。
『多聞院日記』天正12年(1584)正月19日「於二今御門辺一盗人殺害了。伊勢者かみゆゐにてありしと云々」。
天正12年は、豊臣秀吉と徳川家康との間で、小牧・長久手の戦いがあった年です。

『多聞院日記』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。1月19日の記述には、この項目を含め4つの項目が簡略に記述されています。
この記述から、伊勢者の「かみゆゐ」が存在したのがわかります。前段の盗人殺害との関連はこの一文からは不明です。伊勢者は忍者・忍びの者のような働きをするものもいるので、「かみゆゐ」をしながら情報を収集していたのかもしれません。

月代を奨励したのは織田信長です。天正年間には、烏帽子が廃れ露頂になり、月代が普及しはじめていました。月代剃り、髷結を生業とする人が生まれてもおかしくありません。天正のなかごろ、1580年代には上方で髪結床が発祥したのは間違いありません。
江戸よりもざっと半世紀前のことです。戦国時代、江戸時代初期は、上方が文化、風俗の先進地でした。

丘圭・著

『多聞院日記』(たもんいんにっき)

奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年の間、僧・英俊を始め、三代の筆者によって書き継がれた日記。 当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料とされています。