江戸の髪結に鑑札を渡す

寛永17年(1640)「幕府、江戸の髪結に鑑札を渡す」。
『日本史年表』(岩波書店、歴史学研究会編)に記載されています。たった一行で、出典など不明です。

鑑札は営業許可証のようなもので、多くは将棋の駒のような五角形をしています。
鑑札を渡す、というのは、幕府が認めた髪結に渡すことで、鑑札を持たない髪結の営業を禁じたわけです。

徳川家康が江戸に封じられたのは天正18年(1590)のこと、慶長8年(1603)征夷大将軍になり江戸幕府を開きます。その後江戸城の増築や改修、天守閣の造営などを諸大名に命じて普請させたことから、土木・建築関係の人が江戸に集まります。さらに、元和元年(1615)豊臣家を滅ぼし、武家諸法度を発し、江戸に大名屋敷を作らせると、多くの武家が地方から集まってくるようになります。

寛永17年といえば、参勤交代が行われるようになった家光の時代で、江戸の町方衆も数を増し、江戸幕府のお膝元として、ようやく賑わいを見せ始めたころです。
初期の江戸の町は、男が多い町でした。そのころ一般化した月代剃り、丁髷はセルフでするのは難しい。江戸に髪結が増えるのは必然といえます。

上方では戦国時代にすでに髪結がいましたが、江戸は江戸幕府が開かれ、諸国から人、とくに男子が集まってくるようになった、慶長後期あたりには髪結が仕事をしていたものと思われます。
営業形態は、多くは出床です。街道筋の脇に簡単な床を張って、大きな暖簾をかけて通りからひと目を遮っただけの簡単な出床だったのでしょう。

寛永17年の当時は、店で営業する内床もいたでしょうし、得意先の屋敷に出向いて仕事をする廻り床屋もいました。江戸の町で、多くの髪結が腕を競ったと思われますが、なかには技量的、あるいは技量以外の面で不的確な髪結がいたのかもしれません。そんなけしからぬ髪結を排除し、取り締まるために渡したのが髪結鑑札といえます。

『日本史年表』は文字通り、一冊まるごと年表です。政治史、事件史が大半を占めるのはやむをえません。400ページある『日本史年表』で、髪結に関する記述は、この一行と、慶長8年(1603)「出雲の阿国・京都で歌舞伎踊りを演ずる」ぐらいです。

出典などの明記はありませんが、有力(と思える)歴史学者ら60名が成作に参加している書籍だけに、間違いないと信じています。

丘圭・著