江戸の床屋は赤羽根から

江戸での床屋の興りは、『我衣』によると、寛永のころになります。
「寛永のころ里見家の浪人、在々へ陣幕を持ち歩き、人通りのあるところには竹木の枝を張り回らして髪を結った、長暖簾もここにおこり、江戸髪結の始りは赤羽根の床が最初である。これをそのころ一文剃りという」

『我衣』(加藤曳尾庵、宝暦3年/1763没)は、加藤さんの日記です。寛永年間は1624年から1648年あり、加藤曳尾庵さんが生きた時代より1世紀ほどになります。1世紀まえのこと記憶している人はいません。伝え聞いたか、別の資料を参考にして書いたのでしょう。
信憑のほどはわかりませんが、内容は具体的で、当時の江戸の事情を考えても不自然さはありません。

赤羽根は、増上寺の南西の地名で、いまでも赤羽橋という地名(橋名)が残っています。渋谷・恵比寿を流れる渋谷川は古川に合流しましすが、古川は当時は赤羽川とよんでました。
赤羽根は東海道の脇にあり、寛永年間には、すでに多くの人出がありました。江戸市中の入り口でもあり、東海道を歩いてきた旅人が、月代や髭を剃り、髷を結い直して、江戸の町に向かった、そんな旅人がいたのでしょう。

『江戸名所図会』も「赤羽川の北河岸は、毎朝魚市がたち賑わった」と赤羽根を紹介しています。『江戸名所図会』は『我衣』よりさらに1世紀ほど後の天保年間の書物になります。広重や国定の錦絵にも取り上げられています。

「里見家の浪人」が江戸での床屋の祖として紹介されているのも納得できます。里見家は、安房、上総を所領していましたが、江戸の床屋といえば上総者と相場が決まっていました。里見家の浪人が床屋の祖だとしても納得できます。

【参考】上総の出身者が多い髪結
http://www.kamiyui.net/?p=644

加藤曳尾庵さんの冒頭の一文の出処は、上総者の床屋から聞いた話ではないか、と推測しますが、いかがでしょう。

丘圭・著

錦絵は歌川広重描く「赤羽根」。後ろ見える塔は増上寺の五重塔