『濹東綺譚』にみる日本髪

向島にあった玉の井の私娼街を舞台にした『濹東綺譚』は、初老の作家と遊女の関係を中心に、向島の風物や風俗などを織り交ぜて書かれた小説ですが、昭和初期の当時の髪結風俗が描かれています。

主人公は、作家・大江匡といいます。平安時代の学者・大江匡房、彼の書いた『遊女記』を連想させる名前です。作中作の『失踪』という小説の展開も絡んで『濹東綺譚』の話は進んでいきます。主人公の大江は、作者の永井荷風さんの分身で、初老男性の現実逃避を描いた小説ともいえます。作家の目を通して当時の風俗が写実されています。

玉の井で偶然、出会ったお雪について、大江は
…油の匂いで結ったばかりと知られる大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあった事を思い出した…
と書いています(引用は『濹東綺譚』岩波書店・文庫本。以下、同)。

「潰島田」は「つぶし」とルビがふってあり、当時「つぶし」といえば潰島田をさしていたことがわかります。のちの場面でお雪は丸髷で登場しますが、潰島田と丸髷は昭和初期の粋筋に結われてい日本髪です。

また、足繁く玉の井に通う大江は、玉の井にいる粋筋のうち、日本髪を結っているのは1割程度と観察しています。他は、束髪か大正時代から流行りだした断髪姿だったようです。

潰島田は、江戸時代後期に登場した日本髪です。流行り廃りが激しい日本髪のなかでも明治・大正・昭和と一世紀以上にわたり結われた人気の髪型で、粋筋にも結われましたが、若い娘や婦人など幅広く結われています。

潰島田の由来について、喜田川守貞さんは『守貞漫稿』で、「島田髷を江戸にてツブシ島田と云、中央ツブシたる如く凹む故也」と書いています。
この髪型に類似するものは18世紀末の寛政ごろは見られます。そのころは島田と呼ばれていたようです。つまり島田といえば「潰島田」をさしていたようで、のちにいろいろな島田髷が登場するに至り、「潰島田」と呼ばれるようになっただと思われます。

特徴は、守貞さんがいうように「髷の中央を潰し凹んだ」髷です。
この髷が登場した当初は、芸者、遊女ら粋筋の商売女の結う髪だったようですが、江戸末期には地女ら幅広く結うようになり、とくに若い女性が好んで結ったとされています。

江戸時代後期、島田髷に限ったことではありませんが、髷にアクセントをつけるため、髷かけといわれる縮緬類が巻かれるようになります。娘は緋縮緬や金糸の華やかな髷かけを使いますが、粋筋の女性は渋いのを使いました。お雪の銀糸の髷かけは粋筋のものです。

『濹東綺譚』からみた日本髪の話でした。

丘圭・著