江戸の床屋と違う京の床屋

京の都を描いた洛中洛外図屏風は100点以上が存在するといわれてます。なかでも上杉本が有名ですが、庶民の日常を躍動的に描いた舟木本も高く評価されています。この舟木本に髪結床が描かれています。

舟木本は、滋賀県の医師・舟木氏が所有していたことから舟木本といわれています。現在は、国宝として東京国立博物館が所蔵しています。
岩佐又兵衛筆、江戸時代・17世紀、紙本金地着色、各162.7×342.4、6曲1双。
製作年代は17世紀ごろとなっていますが、慶長19年(1614)から元和2年(1616)ごろの可能性が高い。

すでにそのころには、京の都では床屋が稼業していたのがこの屏風絵からわかります。描かれている床屋は二床です。いづれも橋のたもと、橋詰といわれる場所で、欄干の脇に床を構えています。
一つは右隻の戻り橋のたもとです。もう一つは五条大橋のたもとにあります。

戻り橋の床屋は、総髪の客の髪をなでつけています。五条大橋の床屋は、月代をあたっています。絵ではよくわかりませんが、江戸時代にはいると月代を剃るようになったので手にしているのは剃刀と思われます。ですが剃刀にしてはサイズが大きいので、もしかしたらケッシキという毛抜かもしれません。

日本剃刀は、21世紀の現在も一般的ではありませんが、使用されています。柔らかい剃り味があり、男性の濃いヒゲはもちろん化粧ののりをよくするため女性のウブ毛を剃るに適しています。形状は手掌よりやや大きいくらいで小振りです。

舟木本で床屋が手にしているのは、現在の日本剃刀を基準に考えると大きい。剃刀そのものは仏教とともに6世紀頃には日本にの伝来し、僧侶が使っていました。剃刀の形状が時代とともに変遷した可能性はありますが、この絵だけでは判断はできません。

店構えを見てみましょう。
江戸の町の床屋とは違います。江戸の床屋は、障子戸に大きな暖簾が普通ですが、舟木本に描かれた出床は暖簾はなく、開放的です。上には、鋏や櫛など商売道具を描いたちいさな看板がかけられ、床屋であることを通行く人に知らせています。

江戸の床屋では、客が受け盆を持っていますが、五条大橋橋詰の床屋で客が持っているのは手ぬぐいのような布を両手で持ってます。江戸と京都では髪結床の風習が違うのか、それとも初期の髪結床ではまだ受け盆は使われていなかったか?
いづれにしても、床屋文化は江戸と京では違うようです。

江戸が日本一の人口を誇る都市として政治、経済、文化、風俗の中心となるのは江戸時代中期以降です。文化、風俗は中期に上方と肩を並べるようになり、後期にようやく中心になります。江戸前期までは上方が先進の地でした。

髪結文化も上方が先進地で、江戸に床屋が誕生したのは17世紀の慶長ごろと推測されますが、京都では天正12年(1584)にすでに髪結の記述があり(『多聞院日記』天正12年(1584)正月19日)、江戸より四半世紀ほど先進していたのがわかります。

床屋には、内床のほか仮設店舗の出床、店を持たない廻り床屋があります。舟木本に描かれている床屋は出床になります。出床は人通りのある橋のたもとが発生地で、その後になって、やはり人通りの多い街道筋などにも現れます。

なぜ橋のたもとかというと、前述のように多くの人が往来するからです。京、大坂、江戸などの町にはいろいろな人がやってきますが、町で人に合う前に身ぎれいにしたいという人はすくなくなかった。だから橋の脇にある床屋に入って月代し、髷を結い直す人は多かった。

町にはいってくる人の中には怪しい人もいます。床屋はそんな怪しそうな人の出入りを見張るのが役目の一つで、一等地といえる橋のたもとでの稼業が許されたのではないかと思われます。

幕領地では、橋のたもとの出床のほか、町中では木戸番のある入口の近くで店を構えたのは町の自治を担う役割があったからです。江戸時代を通じて、すくなくとも幕領の床屋は町の自治の一端を担っていました。

橋は交通の要衝であると同時に、京の都のような人の集まるところでは河原は遊興の場でもあります。多くの芸能者がいました。河原者といわれる人たちです。そんな芸能者は意匠を凝らした衣服をまとい、髪型も工夫しました。そんな芸能者のリクエストに応えたのが橋のたもとの床屋だったのかもしれません。

橋のたもとで稼業する床屋は、橋の見張り役もしていて、大雨の日には橋の損壊などを見張っていました。床屋は全般には町の自治に深く関わっていましたが、その立地によって橋番をしたり、奉行所など役所近くにある床屋は火災などのとき、役所の書類などを持ち出す役目も課されていました。

丘圭・著

上・五条大橋の床屋、下・戻り橋の床屋(洛中洛外図屏風・舟木本より)