遊女、芸者は苦界の人か?

前回、洗いざらしの髪のまま撮影した芸者さんがいて、髪の洗い粉の宣伝モデルに起用された、と紹介しましたが、写真の女性がその芸者さんです。新橋芸者のお妻さんといいます。

15歳で文士と結婚するも夫の遊びが過ぎて離婚。夫が残した借財を返済するため芸者になったといいます。いまでは考えられません。
洗い髪のまま撮影したことから「洗い髪のお妻」として有名になりました。この当時すでに、ライオンや資生堂など、いまにつながる会社が事業を行っていましたが、どこの会社のモデルになったのかは不明です。

写真・下の女性は、明治期の美人として、いまでもよくメディアに紹介される、外相・陸奥宗光さんの後妻、亮子さん(1856~1900)です。新橋の置屋・柏屋の芸者で、小鈴(小兼)と名乗っていました。明治5年(1872)に宗光さんと結婚しています。英国の外交官で日本に長く滞在したアーネスト・サトウさんが美人として褒めたのは亮子さんだけです。

明治21年(1888)に宗光さんが駐米大使として渡米すると、亮子さんは42歳になっていましたが、その美貌は変わらず、現地ワシントンの社交界でも注目を集めたそうです。しかも聡明で気配りがきく亮子夫人は社交界の華のと評されています。

明治16年(1883)、不平等条約の解消などを目的に洋風化を急いだ政府は鹿鳴館を竣工し、おもに貴族などの婦女子を動員して、外国人外交官らを招いて舞踏会を催しました。しかし、付け焼き刃の洋風化は諸外国の外交官には不評だったようで、外国人には猿真似に映ったようです。フランス人の風刺画家・ビゴーさんは、ドレスを着た猿を描いて、痛烈に皮肉っています。明治政府の鹿鳴館作戦は失敗でした。

鹿鳴館に動員された高貴な婦女子よりも、芸者上がりの亮子さんのほうが、よほど日本外交の役に立っていたようです。

木戸松子さんにしろ亮子さんにしろ芸者上がりの夫人は多い。前回紹介した『東京百美人』に入選した芸者さんのすべてではありませんが、多くはそれなりの旦那に身請けされています。

江戸時代、吉原の歴代の高尾は旗本や大店の旦那に迎えれれています。一人だけ、男遍歴を続けた高尾がいましたが、他は正妻や側室に収まって余生をおくっています。上方の歴代の夕霧も高尾と同様かと思います。

よく遊女や芸者の世界を苦界と称し、悲惨さが強調されます。実際、自分の意思に反して男を相手にするのは辛いことには違いありません。しかし、美しくない女性は、水汲み女など力仕事に従事して、着古した着物を与えられ小遣い程度しかもらえなえずに一生を終えます。

遊女になる女性も力仕事に従事する女性も、家が貧しくて口減らしに出されるのですが、美しければ遊女に、そうでなければ力仕事に。遊女は習い事や読み書き、和歌などの教養も身につけることができますが、力仕事に従事する女性は牛馬に近い扱いです。娶ってくれる男性がいればいいけど、そうでなければ一生男を知らずに終えることになります。

評判の遊女は早々と身請けされますが、そうでない遊女は年季明けが近づくと、客の中から亭主候補を物色して将来設計を立てます。亭主候補がいなければ、遊女屋で覚えた習い事の師匠として生活する人もいましたし、髪を結うのが上手ければそのまま遊女屋に居着いて、後輩の遊女の髪を結っていた年季明けの遊女がいたかもしれません。

丘圭・著