遊女に学ぶ流行の髪形

江戸時代後期、文久14年(1817)に日本各地を旅した女性がいます。三井清野さんといいます。彼女の旅日誌が残されていて、歴史家の金森敦子さんが解説をまじえて、その全文を紹介しています。『きよのさんと歩く大江戸道中記』~日光・江戸・伊勢・京都・新潟・・・六百里~(ちくま新書)。

江戸も後期になると庶民が全国各地を旅するようになり、女性たちも旅に出かけますが、男性の旅日記が多く残されているのと違い、女性のものは珍しく、貴重な旅の史料の一つです。

清野さんは、山形は鶴岡の富商の家付き女将。31歳。14歳の娘もいるけど子育ては終わっていて、いまの感覚でいうなら40代後半のおばさんといったところ。健脚で健啖家で、お酒も大好き、しかも好奇心旺盛。5月7日(旧暦では3月23日、以下陽暦)に鶴岡を旅立ちます。富商なので金銭的にも余裕のある108日間の旅でした。

この清野さん、遊女に興味があるらしく、遊女に関する記述があります。
5月16日、福島県の白河宿。「女郎の様、いと古風にて、髪の結ぶり醜く、さりながら色白く」。
その6日後の5月22日は、江戸千住に。大松屋伊兵衛という宿で遊女、飯盛り女を観察し、「髪の結ぶり、大タボにて小さく下に結い、二、三年前とは大違いの由」と記しています。

タボを大きくつくり、髷は小さくして、下とあるので、後頭突起部あたりに髻をとったのでしょうが、この一文だけでは、どのような髷だったのかはわかりません。
金森さんは解説で、『岡場所遊郭考』から『紫鹿子』を孫引きして、「千住の女郎は、髪の結い方、着ている着物、高慢な気性も吉原の遊女に似ている」と紹介しています。
清野さんが見た千住の飯盛女の髪形は、吉原の遊女のしていた髪形に近い結い方をしていたようです。
また、「二、三年前とは違う」と書き記していることから、髪形の流行は早いことがうかがえます。

清野さんが遊女の髪形や着物に着目しているのは、遊女が流行の発信源で、流行の先端をいっていたからだと思います。最先端といえる吉原の遊女の髪形に近い髪、着物をまとった千住の遊女に比べ、福島の遊女は、清野さんからみて「いと古風」と評価は低い。

その清野さん、旅先の遊郭に出向いて遊女を観察するだけではなく、揚屋に上がりこんで遊女を上げて遊んでいます。並の女将さんとは違います。遊女に酒の相手をさせただけかもしれませんし、それ以上の接待をさせたかは不明です。

金森さんは、呼ばれて上がった先に待っていたのが年増女で、遊女はさぞびっくりしたでしょう、と解説していますが、江戸時代はジェンダーフリーの世の中です。
江戸時代といえば男色が知られてますが、本来男相手の陰間茶屋に通う女性はいましたし、貝合せなる言葉もあるくらいですから、男色ほどではないにしろ、女性同士の行為があってもまったくおかしくありません。

それにしても、行く先々の宿場には、一部の城下町を除いて、飯盛り女の大勢いたのには改めて驚かされます。宿お抱えの遊女以外にも、江戸の夜鷹、京都の辻君、大坂の惣嫁など人口の多い都市で清野さんは私娼を多く見ています。どうやら江戸時代、売春は日常的にどこでも行われていたようです。幕府は繰り返し禁令や、飯盛女の人数制限を命じますが、そんな触れは守られていないのが清野さんの旅からわかります。

遊女を見て歩く清野さんですが、遊女に対して蔑んだ意識はまったく感じられません。一人の人間、一人のファッションリーダーとして見ているのが感じ取れます。おそらく江戸時代の遊女は、そういう存在だったのでしょう。

丘圭・著

参考・『きよのさんと歩く大江戸道中記』~日光・江戸・伊勢・京都・新潟・・・六百里~、(ちくま新書、金森敦子)