その後の吉宗は中風

徳川8代将軍・吉宗(貞享元年/1684)~寛延4年/1751)は、歴代将軍のなかでも名君といわれた将軍です。

享保元年(1716)の8代将軍に就くと、財政改革をはかるとともに新田開発、足高の制、町火消、目安箱、小石川療養所などの数々の改革を行ないます。一連の改革を亨保の改革といい、高く評価されていましたが、近年マイナス面もあり見直しがすすんでいます。その吉宗さん、延享2年(1745)、61歳のときに将軍職を子の家重に譲って隠居します。

吉宗については、『徳川実紀』の『有徳院殿御実紀』とその附録に活動が詳細に記録されていて将軍時代の活躍ぶりは伝わっていますが、隠居後、西丸に移ってからの消息は意外と知られていません。

『江戸人の老い』(氏家幹人、草思社文庫)に、その後の徳川吉宗のことが書かれています。その中に髪に関することも数行あります。引用史料は、小笠原石見守政登(まさなり)という吉宗のお側衆が書いた『吉宗公御一代記』です。小笠原石見守は吉宗より一歳年下で、紀州時代に小姓になり、その後吉宗が没するまで常に身近に仕えた人で、『吉宗公御一代記』はいわば小笠原石見守が書いた公務日誌のようなものです。

その後の吉宗は、延享3年(1746)に中風(脳梗塞)を発症、翌年には回復して快気祝いを行っていますが、運動機能や言語に重い後遺症が残りました。

…大御所の月代を剃るのは以前は奥坊主の役目だったが、病後は小姓が務めるようになった。寛延3年9月27日、石見守は看病の小姓が人手不足なので、小納戸の中から小姓に採用する4名を推薦しているが、その一人、土屋多門正長(31歳)の推薦理由は「多門は髪、月代を能く致し候間…と著者の氏家さんは解説を交え紹介しています。
髪、月代に関する記述はこれだけですが、中風になって介護のための手助けが必要になり、小姓を増員する際に、髪、月代の上手な土屋多門さんを推薦したわけです。結局、土屋さんはせっかくの推薦にもかかわらず、大御所の意にそわなかったのか採用されませんでした。

将軍の髪、月代は通常は将軍の身近に仕える小姓があたったとされています。しかしこの一文から月代剃りは奥坊主がしていたのがわかります。吉宗が現役の将軍のころからそうしていたのか、隠居して病を発症するまでの間のことなかは不明ですが、奥坊主が月代をあたっていたことは間違いありません。

坊主は毎日、頭を剃っています。これは、仏教が日本に伝来した6世紀ごろからの習いです。小納戸あがりの小姓より上手いはずです。まして相手は将軍です。万が一にも粗々は許されません。将軍だって痛いでしょう。
将軍付きの奥坊主がしたとしてもおかしくありません。奥坊主が月代をして、小姓が髷を結い上げる、そんな分業だったのかもしれません。

いずれにしても、将軍の髪、月代をするのは小姓とされていますが、例外もいろいろあったようです。大名や小名なども近くに仕える近衆の者が頭をあたっていましたが、こちらはもっと多様だったと考えられます。場合によっては、奥方があたっていたこともありそうです。

対外的には礼儀作法が厳密でしたが、内向きなことはまちまちだったのが江戸の時代です。

丘圭・著